2003年09月01日

『機』2003年9月号:「詩の政治」とは何か 西山達也

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ハイデガー読解の集大成、ついに刊行!

 本書『ハイデガー詩の政治』は、『政治という虚構』(藤原書店、一九九二年)等の著作で知られる哲学者フィリップ・ラクー=ラバルトが、長年にわたって哲学的関心の核として取り組んできたハイデガーとの対決に終止符を打つべく著した、ひとつの集大成とも言うべき著作であり、とりわけ、ハイデガーによる詩人ヘルダーリンの読解に関する彼自身の研究成果をまとめた、ラクー=ラバルトのひとつの到達点である。
 ところで、本書には「詩の政治」というタイトルがつけられている。ラクー=ラバルトは「詩の政治」という言葉によって、何を言い表そうとしているのだろうか。

詩作の原―政治
 「詩の政治」とは、まずもって、詩を作り、かたどり、形成することの政治を意味する。詩とは、ヨーロッパの言語では、「ポエム」あるいは「ポエジー」であって、ギリシア語源に遡れば、ポイエインされたもの、つまり製作されたもの、創作されたもの、あるいはその行為のことを指し示している。その「詩」が、いかなる政治性をはらんでいるというのだろうか。
 そもそも哲学は、プラトンのいわゆる「詩人追放」に倣いつつも、つねに、自らが正統な創作行為たらんとし、その限りにおいて、つねに「詩」を欲しつづけてきた。そこには都市国家(ポリス)の市民に正しい教育を施し、そうすることで、都市国家を、共同体を、製作し、造型し、あるいは虚構するという政治的プログラムがあったのである。
 例えばハイデガーは、彼にとって詩人のなかの詩人であったヘルダーリンを扱った最初の講義において、こう述べている。「ヘルダーリンが、まだ我々の民族の歴史において力となっていないがゆえに、彼をそのような力としなければならない。このことに参与するのは、もっとも高次の、本来的な意味での“政治”であって、それゆえに、ここで何かをなしとげる者は、“政治的なもの”について語る必要はないのである」。民族の歴史を形成するという作業は、もはや「政治的なもの」について語る必要もないほど高度な政治に参与することだとされている。このような政治が、詩の「原―政治」なのである。
 これに対して、もうひとつの詩の政治、つまり詩人たちの政治というものがある。それは、ハイデガーとの対話に絶望したツェランの政治であり、また、ヘーゲルやシェリングとともに、ドイツ観念論の形成に深く関わったヘルダーリンの政治でもある。ラクー=ラバルトは、本書のターニング・ポイントとも言うべき第二章「ねばならない」において、ヘルダーリンの詩「追想」をとりあげつつ、ポイエーシスの、あるいは「形象化」の営みの果て、「脱―形象化」の地点にまで到達するという、詩の使命、あるいは「ねばならない」の命法を模索している。
 『政治という虚構』において、このような「原―政治」に関する議論は、十分には展開されていなかった。それゆえ、ラクー=ラバルトは、ハイデガーのナチ加担、等々の「政治性」を問題にしているのだという認知が、一部に流通してしまった。そのような認知は、ある意味で間違ってはいないのだが、『政治という虚構』においても、今回の『ハイデガー詩の政治』においても、ハイデガーのそうした政治性が糾弾されているのではない。ラクー=ラバルトが考えようとしている「政治」とは、あくまでも「原―政治」なのであって、〈詩〉を、とりわけヘルダーリンの詩を問題にしなければならなくなったハイデガーの政治性なのである。その一点を、徹底的に掘り下げたのが『ハイデガー 詩の政治』である。

読むことの政治性と宗教性
 だがしかし、「詩の政治」という表現には、もう一つの含意がある。それは、「詩をの政治性」である。
 ハイデガーは、ナチズムへの政治的加担の直後、一九三四/三五年の講義において、突如としてヘルダーリンの詩の読解を開始し、その読解は、晩年に到るまで倦むことなく続けられることになる。そこには、ラクー=ラバルトの言うように、政治的なものからの撤退という政治性があるのかもしれない。だが、特に晩年においては、ハイデガーは完全に政治から撤退してしまうかに見える。その撤退を標識づけているのが、戦後の彼の「敬虔主義」的な態度である。彼は政治からの撤退をアピールするために、「敬虔」な態度を装ったのか。あるいは、彼にとっての「原―政治」とは、ある種の宗教性と不可分なものだったのか。
 本書でラクー=ラバルトは、このような詩を読むハイデガーの政治性と奥深く結びついた、「読むことの宗教性」とでもいうべき問題を扱っている。ラクー=ラバルトは、しばしば、「宗教」Religionという単語が、「再び読む」「慎重に読む」といった意味のラテン語relegereに由来するという説を引き合いに出す。慎重に「読む」ことの「慎み深さ」は、ある種の宗教性をはらむ。これは、例えば「虚心坦懐に読む」といった表現から想像されるような精神性に近いものかもしれない。要するに、読むという行為は、それ自体、きわめて精神的な営みとして神聖化されることがありうるのであって、ハイデガーが自らのヘルダーリン読解を講義の聴衆を前にして開陳するとき、それは、ひとつの「教説」あるいは「教導」行為にほかならなかったのである。

ラクー=ラバルト的な読み
 このようなハイデガー的な読解の政治性と宗教性に抵抗する可能性を、ラクー=ラバルトは本書においてさまざまな形で模索し、また実践している。その意味でも、本書は決定的な著作であると言うことができる。『政治という虚構』では、多岐にわたる彼の仕事を要約するという制約ゆえに、列挙された彼自身のテーゼと引用とが急ぎ足で接合されてしまっていたが、本書においては、厳密な意味での読解が展開されている。それも、ハイデガー的な読解、ある種の宗教行為にも通じるような読解を極力警戒しつつ、テクストで何が言われているかに鋭い視線を向けているのである。また、ラクー=ラバルトが読解のために用いているいくつもの補助線は、本書の魅力を増している。例えばそれは、バディウとの「議論」であり、また、ハイデガーの対抗馬として引き合いに出されるアドルノあるいはベンヤミンである。
 このような取り合わせは、ある意味で、舞台めいていると言えるかもしれない。本書には、ラクー=ラバルトによって、数々の切り返し、舞台転換、そして照明の反転など、演劇的な効果が散りばめられている。これは、彼が哲学の仕事と並行して携わってきた舞台の仕事の経験とも関係がある。だが彼の演出は、一切の装飾を排したシンプルなものである。そこで演出されるのは、断絶を伴いながら接合しあう数々のテクストである。それはラクー=ラバルトと「共同の思考」を実践してきたジャン=リュック・ナンシーの表現を借れば、「切分のディスクール」とも呼びうるものなのかもしれない。
 そのような文章の息づかいまで本書で訳出されているかは、読者の方々の判断に委ねるしかない。ただ、本書では、ラクー=ラバルトが縦横無尽に参照し、あるいは引用している哲学・文学テクストの出典や、難解な語義等に関して、著者にも確認を取りつつ、ほぼ網羅的に、訳注で指示することはできたと思う。読者の方々には、本書をガイドブックとしつつ、アドルノのヘルダーリン論「パラタクシス」や、ベンヤミンの若書きの試論「フリードリヒ・ヘルダーリンの二つの詩」、そしてハイデガーのいくつかの論考を横に並べながら併せ読んでいただければ、より一層、ラクー=ラバルトの読解の迫力を体験していただけることと確信している。

(にしやま・たつや/ヨーロッパ近現代思想)