2003年03月01日

『機』2003年3月号:風と航跡 北沢方邦

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感性と内面の奥深くに訴える文体で綴る“詩”的自伝

時代の風
 たしかに時代の風というものがある。はじめは樹々の葉叢をそこはかとなくそよがせる微風であったものが、ときには強い逆風となり、ときには激しい暴風となってひとびとを襲う。ごく稀に、ひとびとに希望をあたえる順風が吹くが、そう長くはつづかない。
 おそらくそのような順風は、太平洋戦争の終結後、一九七〇年代前半までの、わずか三〇年ほどそよ吹いたにすぎない。超高層建築が林立し、ガラスの壁面を煌かせる物質的繁栄とひきかえに、ひとびとの内面は荒廃し、世界は強者と弱者、あるいは勝者と敗者の深刻な対立に引き裂かれはじめた。九月十一日事件(いわゆる同時多発テロ)は、世界のそのような頽廃した内部をあらわにした。七〇年代後半から、その徴候ともいうべき重苦しい微風が、排気ガスに汚れた大気をふるわせはじめていたが、それに気づいたのはかぎられた少数者だけであった。気づかれないままにそれは、ある日突然、ジェット・エンジンを全開した轟音となり、突風となって超高層建築を襲い、黒煙のなかに崩壊させてしまった。
 九月十一日事件以来、よかれあしかれ新しい時代がはじまったが、本書は、少なくともそれまでの時代の風を、私の幼時からの心象風景や記憶を通じて描いたものである。世界的経済恐慌の頃吹きはじめた暗い微風は、第二次世界大戦という台風に成長し、何千万のひとびとの命を奪い、太平洋からユーラシア大陸の端にいたるまでを廃墟と化したが、その風も、かつてはむしろ、ひとびとにとってこころよいものでさえあった。つまりファッシズムもナチズムも、重く垂れ込めた不況の暗雲をはらう爽やかな風と感じられたのだ。そうでなければ、なぜファッシストのローマ進軍が歓呼でむかえられ、ナチス党が総選挙で圧勝し、真珠湾攻撃が日本全土の熱狂を呼び起こしたか、理解することはできない。
 昭和初期の大恐慌に比ぶべきもないが、不況の暗雲がふたたび垂れ込めている現在、どこからともなく吹きはじめたナショナリズムの風が、戦乱でないまでも、オーウェル流の「すばらしき新世界(ザ・ブレイヴ・ニュー・ワールド)」の到来を招かないよう、われわれは心しなくてはならない。本書はその警鐘ともなればと念じている。

「教養小説」(ビルドゥングス・ロマン)として
 それとともに本書は、ある種の「教養小説」(ビルドゥングスロマン)としても読んでいただけるのではないか、と自負している。ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』以来、主人公がいかに知的また人間的に成長していくか、その内面の軌跡を描くのが教養小説であるが、《人間的に》はともかく、私自身の知的な成長過程は描いたつもりである。
 知的といっても、それはいわゆる思想的なものではない。ひとときマックス・ウェーバーをはじめとする近代社会科学に思想的なものを追い求めたことがあったが、私の出発点はつねに芸術であり、近代のなかで芸術のみが理性と感性あるいは身体的なものを統合する全体的な「思想」の表現であるという直観と信念をいだいてきた。
 そのような人間の内面の全体性を表現する手段としては、言語はあまりにも貧しいが、その可能性を最大限に探るのも、文章を書くものの使命といえる。主として、論理の精密さと文脈の明晰さを要求される理論的な本を書きつづってきたが、今後は本書にかぎらず、感性と内面の奥深くに訴える文体を、さらに追求してみたいと思っている。この本に、少しでもそのような世界を感じていただければ幸いである。

(きたざわ・まさくに/信州大学名誉教授)