2002年11月01日

『機』2002年11月号:閑人侃々の語 一海知義

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中国文学の碩学、最新随筆集『閑人侃語』11月刊行!

「侃々諤々」
 侃侃諤諤(カンカンガクガク)という言葉がある。音の響きから、大声で論争しているように聞こえるが、そうではない。大声で騒ぎ立てるのは、喧喧囂囂(ケンケンゴウゴウ)である。 侃侃諤諤の方は、辞書を引いてみると、「剛直で言を曲げないこと」(『広辞苑』)、あるいは「忌憚なく直言すること」(『大漢和辞典』)とある。もともと中国の古典に見える言葉で、中国の辞書では、「直言無忌」(『漢語大詞典』)という。「直言シテ忌ム無シ」、直言してはばからぬことである。 この度の私の随想集は、この「侃」の一字を採って、タイトルを『閑人侃語』とした。侃語というのはあまり見かけぬ言葉だが、侃侃諤諤の語のつもりである。

「帰林閑話」
 「閑人」の方は、ひま人の意。何もすることのない人間である。なぜすることがないのか。退職したからだ。別に「閑職」という言葉があり、この場合は職に就いているのだが、職場に出ても何もすることがない。いわゆる窓際族で、これまたひまである。
 ところで私は、本誌『機』に「帰林閑話」と題して雑文を連載しているが、この「閑話」も同じ意味で、ムダ話、何もすることがないからついしてしまうムダ話である。「帰林」は、古来中国で引退・隠遁することをいう。したがって「帰林閑話」は、隠居のムダ話。

「第五随筆集」
 この連載は、私が国立大学を停年退職してから書きはじめ、近く百回目を迎える。この間ほぼ十年間。その前、新評論のPR誌『新評論』に、「読書人余話」という短文を連載していた。これは約一年半。当時藤原良雄君は新評論の編集長だったが、その連載が機縁となり、私の第一随想集『読書人漫語』(一九八七年)を同社から出していただいた。 その後藤原君は独立して藤原書店を創設、さきの「読書人余話」を軸に他の随筆をまとめて、第二随想集『典故の思想』(一九九四年)が同書店から出る。 その後、藤原書店のPR誌『機』に「帰林閑話」の連載がはじまり、その連載を区切ってこれに他の随筆を加え、第三随想集『漱石と河上肇』(一九九六年、連載第一回―三三回)、第四随想集『詩魔』(一九九九年、第三四―五四回)をやはり同書店から上梓。そして今回の『閑人侃語』は、第五随想集ということになる。

「侃語」はどれほどあるか
 「侃語」などとエラそうなタイトルをつけたが、本書の中に「侃語」に値する文章がいくつあるか、といわれれば、いささか心許ない。しかし昨今の世の中、腹の立つことがあまりにも多すぎる。国歌国旗法、有事立法、税金のムダ使い、政治家の失言、立腹のタネには事欠かない。しかしただ腹を立てるばかりでは、血圧によくないので、文章にして発散させる。それが時に「侃語」めいた発言となる。
 といっても、年中腹を立てているわけではない。私のレパートリイは中国文学、陶淵明や陸放翁、そして日本漢詩、河上肇や漱石、さらに日本語や漢語の問題など、やはりそれらについて考えたり、書いたりしている時間が多い。その結果をまとめたのが、本書である。
 本書の「はしがき」にも書いたように、本書全体が「閑人」の語であることは確かだが、「侃語」と呼べるものがいくつあるか。読者の判断を俟つしかない。

(いっかい・ともよし/神戸大学名誉教授)