2002年10月01日

『機』2002年10月号:「民衆史の同志として」 色川大吉

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〝魂と気迫〟の歴史家齊藤博の未完の論考を収めた『齊藤博史学集成』刊行!

新分野を切り拓くための同志
 私が齊藤博さんと逢ったのは、彼が早稲田大学の大学院生のころ、経済史の正田健一郎ゼミが三多摩の文書調査をしていた時だった。正田教授が八王子の織物組合史の編さんを引受けていた関係もあって、当時八王子周辺の地主の土蔵調査に歩いていた私とは逢う機会が多かった。初対面の時からこの人は異質だ、内に反逆と批判精神を秘めていると私は直感した。それは安保闘争が激しくなる一九五九~六〇年ごろであったと思う。 私はそのころ「困民党と自由党」(一九六〇)、「自由民権運動の地下水を汲むもの」(一九六一)という歴史学研究会二論文で、当時としては珍らしかった民衆思想史や民衆史の新分野を拓こうとしていた時だけに、齊藤博という秘かな同志を得たことに心中よろこんでいた。『明治精神史』を自費出版したのは六四年だが、それは私が非常勤講師をしていた三多摩の大学でのテキストのつもりで五〇〇部刷ったもので、最もたくさん購読してくれたのは、齊藤さんたちのいた早稲田大学であった。

「絶望の明治農村」から
 齊藤さんは地域民衆史という底辺の視座に立って、東北の農村研究をはじめていたようだが、当時私はそのことを知らなかった。真に研究同志であることを痛感させられたのは、一九六八年五月の歴史学研究会大会で、私が「天皇制イデオロギーと民衆意識」という研究発表をし、満座の冷笑と黙殺という仕打ちを受けたとき、敢然と独り擁護に立上ってくれたのが齊藤博氏であった。「東風は西風を圧倒す」「絶望の明治農村」という二文章を送ってくれたのはその直後であったように思う。
 とくに後者は私に深い感銘をあたえた名論文で、『獨協大学教養諸学研究』第三号(一九六八)に発表されたものであった。今読んでも、そこには絶望的情況下の底辺民衆への熱い共感と、頂点の明治天皇への辛辣な批判が盛りこまれており、晦渋な文体の中にも齊藤史学の志が看取できるのである。私は翌六九年に執筆した『明治の文化』(一九七〇・四、岩波書店刊)の七章を、この「絶望の明治農村」から書きはじめている。後にコロンビア大学のキャロル・グラック教授(当時は大学院生、『明治の文化』の共同翻訳者の一人)が来日したとき、齊藤氏を民衆史の開拓者の一人として訪ねたというのもうなずける。
 齊藤博氏の一九七〇年代の次の著作群は何を示すものであろうか。『近代日本の社会的基盤』(一九七三)、『民衆史の構造』(一九七五)、『民衆精神の原像』(一九七七)。民衆史は、定説のようにいわれる「色川大吉、鹿野政直、安丸良夫の三人が開拓者」なのではない。地域民衆史や民衆思想史、民衆社会史など多義的な民衆史をひらいた先駆者は齊藤氏はじめ他にもいるのである。齊藤さんは謙虚な人だったから、自分を押し出さなかっただけだ。
 一九八七年十一月十四日、我孫子の村川堅太郎先生の別邸で芳賀登氏と私と齊藤氏の三人が延々六時間にわたる「地方史と民衆史」の座談会をしたときにも、齊藤氏は司会、聞き役に徹していた。この座談は戦後の全時期にわたる研究史にふれたもので、高木繁吉氏によって『我孫子市史研究』十二号に一一四ページ分も収録された。戦後の在野の研究状況や民衆史の形成過程に光をあてた貴重な記録となっている。
 その後も私は何度か我孫子でお逢いする機会があったが、晩年の齊藤さんには高木繁吉氏(獨協大齊藤ゼミの出身者で我孫子市史研究会の中心的存在)が言われたように、「二十一世紀の我孫子市史での齊藤先生には『窮民明細帳』の書類群と柳田の『故郷七十年』の一節を繋ぎ合わせた、『絶望からの再生』の地域社会史研究を期待したかった」。また『増田実日記』と手賀沼畔の白樺派の文人たちを織り合わせた地域社会史を展開してほしかったと、私もそう想う。
 齊藤博(サイパク)は、「なかんづく『獨協学園史』を書くために、生まれ出で、生き、書き、そして逝ったのか」と、夫人の齊藤幸枝氏は「後記」しているが(『人に志あり――追想齊藤博』)、私はそうは思わない。やはり氏には「絶望の明治農村」から始まって「絶望からの再生」で終る民衆史家として完結してほしかったのである。

(いろかわ・だいきち/東京経済大学名誉教授)