2002年10月01日

『機』2002年10月号:「“現代”を描いた最初の作家」 小倉孝誠

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“現代”を描いた最初の作家
小倉孝誠

 エミール・ゾラは近代ヨーロッパを代表する小説家のひとりである。記念碑的な『ルーゴン=マッカール叢書』全二十巻の作者、自然主義文学の領袖、そしてドレフュス事件に際しては、「われ糾弾す」と題する公開状を発表して敢然とドレフュス擁護の立場を貫いた知識人として、彼の名前は日本でもよく知られている。しかし有名なわりにゾラはわが国で正しい評価を受けていない。理由のひとつは、大作家でありながら翻訳著作集がこれまでまとまったかたちで出版されたことがないからである。
 ゾラはじつに多面的な作家である。すぐれた小説家として社会のメカニズムをえぐり、嗅覚の鋭いジャーナリストとして同時代の問題を論じ、炯眼な美術批評家として印象派の新しさを見抜いた。とりわけ小説家としてのゾラは「産業革命」を初めて文学のなかに登場させ、資本主義的な土地投機、中央市場、鉄道と駅、デパート、証券取引所などに文学テーマとしての市民権をあたえた。さらにゾラは、身体とそれにまつわる現象(セクシュアリティー、欲望、快楽、病理)を人間の根元的な条件と見なしていた。
 要するにゾラは、現代にまでつながる近代の物質文明と欲望を総体的に物語った最初の作家なのである。没後百年にあたる今年、「ゾラ・セレクション」が刊行される運びとなったのは喜ばしい。軽薄さと安直さが何かしら斬新さと錯覚されている今の日本で、世界と人間を真摯に読み解こうとした文学に接することの意義は小さくないだろう。

(おぐら・こうせい/東京都立大教授)