2002年10月01日

『機』2002年10月号:「歴史のなかの「在日」」 上田正昭/姜尚中/杉原達/朴一

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<座談会東アジアにおける「在日」の意味 上田正昭/姜尚中/杉原達/朴一 アジアという視点から「在日」の意味を四人の論客に徹底討論していただいた座談会の一部を掲載する(全文は『環』第一一号に掲載)。 いつ差別思想は誕生したか
上田 日本の古代史を明らかにするためには、少なくとも東アジアという視点から日本の古代史を見極めなければその実際の姿は見えないんだということを、一九六〇年代から今日までずっと研究の中心のテーマにしてきました。現在の私どもの学問の分野ではそういうことは常識になっておりますけれども、いまから四〇年前は、そうではなかった。こういったらオーバーですが、当時は勇気が要ることだったんです。
 一九六五年の六月に、中公新書の『帰化人』を出版しました。それまで日本の学界では、例えば弥生時代に朝鮮関係の遺跡がみつかる、あるいは古墳時代に朝鮮半島から渡来した集団の遺跡がみつかると、無限定に「帰化人の遺跡」、あるいは「帰化人の遺物」だといっておりました。私はこれは学問的におかしいと思いまして、帰化と渡来はどう違うのかをもっと明確にする必要のあることを力説しました。
 帰化という用語は中華思想の産物なんです。周辺の夷狄の人びとが、中国皇帝の徳の下に帰属する。内帰欽化と申しますが、その内帰欽化の略語が帰化なんです。そして日本の統一国家はいつできたか。これはまた学問的にはいろいろ議論のあるところですが、少なくとも七世紀の後半の段階には律令制に基づく国家体制が出来上がってきたことは事実だと思います。ですから統一国家ができていないときに帰化しようと思っても帰化する国家がないことになる。
 そこで、私は「渡来」という言葉を使ったわけです。朝鮮半島から渡ってきた皆さん、あるいは中国から渡ってきた皆さん、当時の古代の在日本列島の人ですね。そういう人を無限定に帰化人などと呼ぶのは、中華思想の一種の裏返しではないか。そして古代に「渡来集団の影響」などという評価もおかしいと。古代日本の歴史や文化の創造に、渡来の集団は参加しているのだということを論証しました。
 古代に朝鮮の人びとに対する差別の思想がなかったといえば嘘になります。ただし弥生時代、古墳時代がそうだったかというと、そうではありません。国家統一、日本国という国家ができてからなんですね。日本国という国家意識の中で、つまり日本は東夷の中の中華であろうとした。したがって渤海とか新羅は、その中華に朝貢する国であると。中国は別格なんですね。
 明治以後の脱亜入欧論も同じですが、形を変えた日本版中華思想が具体化した。古代の日本版中華思想が近代によみがえってきて、そして朝鮮侵略を合法化していく思想の基盤になっていったと、私はみています。
 しかし江戸時代に、御承知のように一六〇七年から一八一一年まで朝鮮通信使による善隣友好が行なわれました。特に第七回から民衆が幕府や藩の禁令を乗り越えて歓迎の渦の中に参加しているということに、私は大変感動して論文も書きました。
 ところが問題は、なぜ朝鮮通信使が文化八(一八一一)年で終わったのかということです。それはやはり、過去の新羅無礼という日本版中華思想が裏返しで出てきたわけです。ですから世界連邦論者的なこと、藩をつぶして連帯しなければいかんといった佐藤信淵でも、あるい日本のベスタロッチといわれる吉田松陰でも征韓論者です。吉田松陰などの論は「幽囚録」などにはっきり書いていますが、征韓の論拠は、かつて朝鮮は属国だったということにあるとする。それが神功皇后征討説話なんですね。いかに『日本書紀』という書が大きな影響を与えたか改めて痛感しますね。

日本人の民衆レベルの「帝国主義」
杉原 一八八〇年代ごろから、特に西日本を中心とした地域から朝鮮に渡っていく日本人が増大していきます。あまり知られていませんが、在日朝鮮人の数が在朝日本人の数を超えるのは一九三五年になってからのことなんです。それほど在朝日本人は時期的にも先行し、人数も多く、何よりも生活の中の権力者として向こうにおいて立ち現れたのでした。
 帝国主義というのは、東京の政府や軍によってのみ推進されたのではなく、しばしば上層ではない日本人の入植者によって、社会的に体現されたということの意味が十分に考えられる必要があろうかと思います。彼らはもとより権力を担いながら、他方で差別と恐怖の入り混じった観念を固定化していった。そしてそれがまた日本に跳ね返ってくるということになりました。この恐怖というのは、甲午農民戦争、閔妃虐殺後の義兵運動、そして、韓国併合前後の大々的な抗日義兵闘争、さらに三・一独立運動へと続いていく朝鮮民衆の武力反抗の流れに直接対するものであるゆえに、極めて深刻な性質を持っていました。その悲劇的な結果の一つが、あの関東大震災での虐殺ということになります。
 もう一つの対面関係というのは、一九〇五年の関釜連絡線の就航を大きな起点として、一九三〇年代、大阪の朝鮮人の形成を典型にしながら、朝鮮人の渡航者が増加していくという歴史的な流れの中で生じてきました。一九三〇年で約三〇万人、強制連行開始の年の一九三九年で約百万人の朝鮮人が日本に在住していました。そして一九四五年には、その数は約二百万人となるわけです。つまり異質な歴史と文化を担った人々が、日常的な生活空間の中に侵入してくると感じることから生じる違和感、そして優越感情が広範に形成されていった。つまり朝鮮でつくられた朝鮮像、朝鮮人像と、日本でつくられた朝鮮像、朝鮮人像というものが重なり合っていき、さらに「外地」、あるいは占領地においてアジアの人々と出会うなかで、そうした朝鮮人に対するイメージや意識が、日本人の民衆の生活レベルでの「帝国意識」となっていったという重大な問題領域が浮上してくるだろうと思います。

ポスト・コロニアルとしての「在日」
 ポスト・コロニアルとして在日を捉えていく場合、これが日本人にとって何を意味するのか。在日を日本というナショナルな空間のいわば痛ましい弱者として見て、彼らをいかに、日本国民が享受している従前の権利義務の主体にまで引き上げるのか、ある種の差別撤廃運動的な見方だけでは全く見えてこない問題がある。そうではなくポスト・コロニアルとして在日を捉えていくことで、日本の、とりわけ戦後日本のあり方それ自体を根源的に問い直すほどの、大きな問題が見えてくる。
 ポスト・コロニアルではなく、ポスト・ウォーということで、自らをつくりあげた戦後日本は、一体何を消そうとしたのか。あるいは遠近法的にいえば、何を遠景化しようとしたのか。それがアジアであったわけです。これはかっこつきの「アジア」、具体的には朝鮮半島をまず指していると考えるべきだと思います。
 考えてみますと、先ほど杉原さんが帝国的な広がりということをいわれましたが、日本はやはり帝国へと向かうことによって、既に国民国家を超えていたわけです。国民国家を超えるという形で、植民地や満州に近代日本国家の理想、あるいは日本のエッセンスを移植しようとした。とすれば、本来、これほど自らのアイデンティティに関わる重大な問題はなかったはずで、それがなぜ敗戦と占領支配、そしてその後の一国単位的な戦後復興の中でほとんど忘却されていったのか。そのあまりにも大きな転換が、なぜ起きたのか。そしてその転換こそが、実は戦後という歴史の刻み方をつくりだしたのではないか。それはいわば帝国としての日本が、単一民族的な戦後の、かっこつきですけれども「平和国家」に、いわば収れんしていくことと同時にその裏側で起きたことでした。
 そういうような戦後日本の単一民族化された空間の中で、在日は旧宗主国・日本の中に残された、いわば「リビング・エビデンス」というか「消失されたものの生き証人」だった。何が消失されたかということを、絶えず生きた証人として日本の中に突きつける存在だった。

超国家的観点からの「在日」の意義
 一九七〇年代の後半に発表された「坂中論文」は在日コリアンの生き方に大きな影響を与えました。彼は「今後の出入国管理行政のあり方」という論文で在日の生き方を、1.祖国に帰国する、2.日本国籍をとる、3.韓国、朝鮮籍のまま日本にとどまるという、三つの生き方に分類し、在日コリアンの近未来を次のように展望したわけです。祖国に帰る人はこれから減る。帰化システムが非常に複雑だから、日本国籍はなかなかとらない。したがってこのままでは大部分のコリアンが韓国、朝鮮籍のままとどまってしまう。これは厄介だからもっと帰化しやすいシステムをつくったらどうかと、坂中さんは法務省に問題提起されたわけです。在日外国人への参政権の見返りに最近日本の国会では帰化簡易法案の提出が準備されているといわれていますが、これは坂中さんのアイデアがようやく採用されたものと考えられます。
 坂中論文は在日コリアンの多くの批判を受けましたが、その代表的なものは、雑誌『朝鮮人』に掲載された飯沼二郎氏と金東明氏の対談「在日朝鮮人の第三の道」でした。彼らは坂中さんが提起された三つの生き方の中では、むしろ韓国、朝鮮籍のまま日本にとどまっていくことが正当に評価されるべきだという、第三の道を提案されました。祖国に帰ることも、日本国籍をとることにも抵抗があった私は、ずいぶんこの「第三の道」論に励まされたものです。しかし韓国・朝鮮籍にとどまって生きていくことにどういう意味があるのかについては明確なポリシィーがあったわけではありません。
 しかしボーダーレス時代の在日の生き方として問われるのは、祖国のために何ができるのかとか、日本のために何ができるのかというだけではなくて、むしろいわゆる特定の国家の利害を超えて、東アジアの平和と安定のために何ができるのかということです。そういうエゴとしてのナショナリズムを超えた、超国家的な観点から自分たちの存在意義が再検討されなければいけないのではないか。

(後略:全文は『環』11号に掲載)