2002年07月01日

『機』2002年7・8月号:四十億年の私の「生命」 鶴見和子・中村桂子

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“生命”を捉える真の学問を模索する「鶴見和子・対話まんだら」第二弾刊行!

鶴見和子/社会学者
中村桂子/JT生命誌研究館館長

 社会学に自然環境への視点を取り入れようとした鶴見和子氏と従来の生物学を批判し、「生命誌」という独自の視点を提示した中村桂子氏との対談の一部をここに掲載する。(編集部)

 ―― 鶴見さんは、「人間が自然の一部であること。そして、自然破壊とは外部の自然を壊すことだけではなく人間自身の内なる自然の破壊でもあるということに気づいたところから内発的発展論がはじまった」と書かれ、中村さんは、「『内なる自然の破壊』があるが、『内なる自然』という言葉で表現されるべきものは、単に人間自身が他の生きものと同じ物質でできているので、自然の破壊は自らの破壊にもつながるというところに止まらない」と書かれていますね。


ゲノムと言葉
鶴見 私が考えている以上に、もっと深くその問題をだしてくださったの、DNAとかゲノムという視点を使うことで。つまり大腸菌から人間まで生命の歴史はずっとつながっているんだ。それで私がそれを見て「我がうちの埋蔵資源発掘し……」といったら、石油や化石みたいで嫌だとおっしゃって……。そのことをいってるのよ、埋蔵資源はね。


中村 聞いて下さっている方に印象づけたいと思ってわざと申し上げました。


鶴見 大腸菌か粘菌か何かわからないけれど、一番はじめに生きものが単細胞ででてきた、そこからずっと現在へつながっている。その歴史は三十五億年と書いてあるものもあるし、四十億年と書いてあるものもあるけれど、それくらいの歴史を背負って、私がここへでてきた。そのなかに系統発生と個体発生がある。そういうことを、つまり内発的発展を深めてくださったの。
それからもう一つ、私、中村桂子さんの『自己創出する生命』を読んで考えたことは、一人一人の個体が生まれてくるということは、他にはないたった一つのものだということ。たった一つのゲノムが可能性を展開して、生きていく。そして死んでいくということは、そのたった一つのものを破壊しちゃうんだから、これは大変なものよ。たとえその人に子孫があって、ゲノムを引き渡しても、たった一つのこの人のゲノムは、もうでてこないでしょう。その次に生まれてくるものは、また違う精子か卵子か、男か女かによって結びついて、新しいゲノムになる。そうするとこの個体が死ぬことによって、ほんとにかけがえのない唯一の個というものはなくなるでしょう。
 それでは社会の場合はどうなるのか。文化史とか思想史、社会史のなかでは、「獲得形質」として得たものを残しておく。つまり、人間や生物にとってのゲノムは社会学では言葉ではないかとおっしゃったけれど、言葉という手段によって、唯一のかけがえのない自分のシナリオを生きてきた筋道を、すべてじゃないけれど、残しておくことができる。一番大事だと思うことをそうやって残しておくことができるけれど、生物としては、たった一つのかけがえのない個体は、死んだら部分的には受け継がれても、そのもの自体としては受け継がれない。社会というものを考えたときと、生物というものを考えたときは、そこが違うんじゃないかなと思うの。



内なる自然の破壊
中村 生命の大切さを強調するあまり、人間を生きものとしてだけ見るのは危険で、人間独自の文化をきちんと考えていくことは大事だと思っています。このごろは環境破壊については意識が高まってきて、外の自然、木がなくなったり、大気が汚れたり、水が汚れたりということに関しては、その問題点はわかっている方が多くなってきたと思います。けれども「内なる自然」の破壊については、まだみんなあまり気づいてないと思うのです。
 内なる自然にもいくつか意味があります。さっきおっしゃいましたけれど、内なる自然の一つは、生物学的にはっきりしていて、カエルもハチも、私も、同じ物質でできているわけですから、物質的に外の自然が壊れるようなことが起きれば人間も壊れるということです。まず農薬などの問題で、病気になるとか、時には死んでしまうということが起きる。そういう物質的な意味の破壊。その次が、環境ホルモンがその例ですが、生殖機能に異常が起きて、自分自身自体にはそれほどの問題はないけれど、次の世代が生れないというようなことで、下手をすると絶えるかもしれません。もちろん、現状で絶えるというところまでは行っていませんが、原理的に未来を絶やすという意味での破壊があり得ます。もう一つは、家族が壊れ、地域が壊れ、共同体が壊れるという、心の問題です。内なる自然というときには、人間の場合は、心があって、その心まで壊れた。私は心は先ほどの魂と同じように一つの関係だと思っているので、関係がばらばらになったということがある。それからもう一つは、時間ですね。

積み重なる時間の破壊
鶴見 時間ということに気がつかなかったの。時間も壊れる。


中村 私がここにいて、そしてまたつなげていく、ずっと長いあいだ背負ってきたものをまたつなげていくという、その時間を断ち切ってしまうわけですから、そういう意味での時間というものを壊してしまうという意味もあると思うのです。
 一番気がついてない方は、外の自然のことだけおっしゃる。内の自然に少し気がついていても、物質的な意味で壊れるということで終る。鶴見さんは水俣で実際にお話をお聞きになったからこそ家族が壊れたということに気づかれたわけでしょう。
 水俣の問題が、心を壊したというのは、実際の話をお聞きになったから強くお感じになったんだろうと思います。


鶴見 ところが時間という軸は、私、考えてなかった。


中村 生命誌は生きものは時間が作ると思っていますので、生きものを壊すことは、それが生まれてくるまでの長い時間を奪うということになると思うのです。それは人間、社会についても同じで、地域ができ上がるまでの長い積み重ねの時間を奪ってしまったわけでしょう。現代文明は時間に対しては厳しいですよね。とにかく効率を求めますから時間は無視。環境問題で、人間にとってもっと深刻に考えなければいけないのは、内なる自然の破壊の問題だと思うんです。外のことは、科学的対処ができるけれど、内なる自然の破壊は、まさに価値観を変えないとなおせない。ここでアニミズムが生きますね。

さまざまな時間を感じる
中村 ヒトが生まれたのが五百万年前ですが、生命、生きてるものが生まれてからはもう四十億年近くたっているんです。


鶴見 その四十億年を一人一人が背負っている。その命を大事にしようと。もうほんとは四十億歳なのよ、一人一人が。これから千年といったら、四十億一千歳になるの。一人一人が違う形で、ユニークな形でそれを背負っている。それを大事にするということね。


中村 いまの世の中は効率第一、時間も時計の示している時間だけですよね。だから何時何分に会いましょうとか、五分でやりましょうとか。それはきめないと世の中動きませんから、この時間ももちろん大切ですし、速くやる必要のあることもあるんですけれど、一本の木が立っていたときに、この木がここまでになるのに何年かかっただろうと思うと、百年だったり五百年だったりするわけですね。そのことを感じないと、ここに家をつくろうと思うと、ぱっと伐ってしまうわけでしょう。私の家の近くでも、昨日まですてきな雑木林だと思っていたところが、今日歩いてみたら、一本も樹が残っていない平らな宅地になっているということがしばしば起きています。しかも、その土地を買った人はまた小さな苗を植えるのです。伐らずにそのまま売れば買った人は一本一本を大事に考えて家を建てるでしょう。この木は何十年立ってるかと思うと、これを生かしてつくる方法はないだろうかと考えると思うんです。しかもそれを生かして建てた方が質の高い生活環境になる。実は、百年、二百年という時間は、身の回りにたくさんあるのに気づかないのです。


鶴見 木で造られた家は、木が伐られてもまだ家の形で生きてるのね。


中村 そういうふうに考えると、長い時間が身近になるはずです。私が生きものは四十億年も続いているんですよというと、そんな時間考えられませんと言われてしまうんですけれど……。


鶴見 だけどあなたの体のなかに入っているんですよということね。


中村 そうです。だから身近な木の時間とか、どうして私はここにいるんだろうと思ったときに、両親がいて、そのまた両親がいてと思うと、すぐに千年や二千年は戻っていけますよね。そうやって、いろいろな時間を自分の気持ちのなかにもつと、単に大急ぎでやったり、じゃまだから切ってしまおうみたいにはならないでしょう。しかも技術は否定しないで生きていくという選択はできると思うのです。ですから私はみんなが時計の時間だけでなく、自然のなかに入っているさまざまな時間を感じて暮らして欲しい。それはおっしゃったように、自分のなかに入っている時間でもあるわけですから、そういう複数の時間を、日常のなかでも感じ取るというのが、命を大切にするということの一つの具体的な方法ではないかと思っています。