父親は蒸気機関のエンジニアで、満洲のあちこちの都市を転勤しながら暮らしていた。ハルビン、関東軍総司令部のあった長春(旧新京)、瀋陽(旧奉天)、そして大連など、どの都市も記憶は鮮明に残っている。
街路樹と石畳とロシア教会の街ハルビン。白系ロシア人の建てた家を満鉄が強引に買い上げて社宅にしたのだろう、大型の壁ペチカのある家に畳の部屋はなくて、ぼくたち家族は西洋人のようにベッドで寝るまでは靴のままで生活していたものだ。街を歩けば眼につくのは背の高い金髪のロシア人か日本人、まるで北欧の都市のようにお洒落でエキゾチックで、その街外れの七三一部隊で世にも残忍な殺人が行われていることなど夢にも思わなかった。
瀋陽の機関区に勤務していたときは、父親にせがんでしばしば機関庫を訪れたものだ。お目当てはむろん特急「あじあ」号。一二三等車、食堂車、荷物郵便車などの六両編成、機関車から一等展望車まで濃いグリーン色でまとめられ、車輪部分には現在の新幹線と同様のスカートをはいたスマートな流線型、自動ドア、空調完備。最高時速一三〇キロ、長春―大連間七〇一キロを八時間半で突っ走るこの超特急は満洲の少年たちの自慢だった。そして当然のように「あじあ」は日本人の列車であり、中国人(当時は「満洲人」といったが)がこの贅沢な列車に乗るなんてと考えていたし、中国人にはとても乗れない料金でもあった。そして、客車を掃除したり、機関車の石炭ガラを真っ黒けになって捨てる仕事をするのは中国人の労働者であることに、ぼくたちはまったく考えが及ばなかった。
転勤が多い家庭には家具というものがあまりない。支那カバンといって大人が楽に入れる大型の鉄製のトランクが三個か四個、それに衣類を詰めればそれで終わり。新しい土地に着くと満鉄の貸家具倉庫というのがある。そこに一家で出かけて揃っている中から好きなのを選び、用意された社宅に運ぶのだが、重い家具を汗をかきかき運搬するのは中国人の仕事だった。チップを渡すと丁寧に礼を言う姿を大連で記憶しているが、その中国の青年がいったいどんな思いで、どれほど悔しさを込めて贅沢きわまる満鉄社員の暮らしぶりを観察していただろうか、と想像できるようになるのは、あれから十数年、敗戦後の引揚げというつらい体験を経たあとだった。
各都市には「満鉄消費組合」というのがあって、満鉄社員は日々の買い物をほとんどここで済ませていた。それは繁華街の中心地に聳えるデパートのような建物で、品物は良質で廉価、社員の家族は通帳を提示して買い物を済ませ、支払いは月給で清算されるシステムになっていた。母親が勘定場に赤い表紙の通帳を差し出すと店員がレジスターのボタンを押し、慣れた手つきで数字を書き込む仕草をよく覚えている。
敗戦は大連でむかえた。父はたちまち失職、銀行も郵便局も閉鎖だから収入が突如途絶えてしまう。学校もいつ再開されるかわからないといった状況の中でぼくたちが住んでいた煉瓦作りの広い社宅は市政府に接収になる。その通達にきたのは八路軍の粗末な木綿の制服を着て大型のピストルを腰に下げた若い将校だったが、驚いたことに彼はなめらかに日本語を話した。母親がたまりかねて「あなた、どうしてそんなに日本語がお上手なの?」と尋ねると、将校は笑いながら「ぼくは京都大学で勉強しましたから」と答えたのでまた驚いた。何故この人が、遠い中国の奥地から戦い続けてこの街にたどり着いたのだろう八路軍の将校が、京都大学にいたのだろうか?
その疑問が解けたのは、それから何年もたって、E・スノウやA・スメドレーの著作を読んでからだった。あの将校は、あれから新中国の出発や文革という波乱の時代をどのように過ごしたのだろうか? 今でも存命なのだろうか? 中国に旅するたびにぼくはしきりに彼のことを想い出す。
(やまだ・ようじ/映画監督)
〈鼎談〉満鉄とは何だったのか
小林英夫+高橋泰隆+波多野澄雄
小林 鉄道会社でありながら鉄道会社でなかったというところに、満鉄のおもしろい性格があるのではないか。ミニ国家とでも言うべきさまざまな国家機能を持った鉄道会社だったという点に大きな特徴があるのではないかと思います。日本の政治が満鉄の中に、ある面では拡大化され、ある面では矮小化された形で表現されてくる。そういう意味でも会社の性格は、一種の日本の出先の小国家だった。そして、単に満洲における会社であったにとどまらず、広い意味での日本の大陸政策の一環を担った会社であったと思います。国策の推移に従って活動の領域も微妙に変わっていく。さらには、ヨーロッパに開いた最も近い窓であって、ヨーロッパの文化がここに一番早く到達し、一番早く花開いた地域でした。
高橋 満洲は日本が占領して満鉄が経営を始めて、一九四五年にいたる間に、中国の中では鉄道の最も発達した先進地になりました。この鉄道の過疎地、後進地から先進地になった。従来の満鉄論では、やや軍事的であるとかコンツェルンであるとか、鉄道会社としての側面をあまり検討しないままに論じられてきましたが、もう一度、鉄道の発展という点から、また鉄道会社という点から、満鉄はどんな会社であったかを見る必要があるのではないか。
波多野 ロシアから譲り受けた鉄道ではあるけれども、それを基盤にして満洲における経営をどのようなものにするかというときに、後藤新平にしても児玉源太郎、あるいは後の原敬にしても、基本的には軍や外交機関が前面に出るよりは満鉄を押し出しながら満洲経営を進めていく。軍や外交機関の後を追うのではなく、むしろ満鉄が前に出ながら日本の満洲進出を担っていく。したがって、その後政府あるいは政党の政争の中に巻き込まれていかざるを得ない。政友会ならば、産業立国論という政策の中で満鉄が改めて議論されることになっていくのではないか。
(こばやし・ひでお/早稲田大学教授)
(たかはし・やすたか/玉川大学教授)
(はたの・すみお/筑波大学教授)
※全文は別冊『環』Kに掲載(構成・編集部)