【藤原書店PR誌『機』2007年7月号より】
1972年の“本土復帰”とは何だったのかを徹底検証!
「琉球の自治」を考える
松島泰勝
奪われた尊厳
「復帰」後、インフラが整備され、便利になり生活が改善されたとの声を聞くことがある。しかし、イバン・イリイチは、開発を「サブシステンス(それぞれの地域が有する環境に適合した自存自立の生活)に対する戦争」とみた。そして「開発は、決して埋めることのできないニーズを生み出し、決して提供されることのないサービスの要求を生み出すことで終わる」と語った。開発は島々のサブシステンスを破壊し、人間はニーズやサービスを限りなく求めるようになった。狭い島を次から次へと開発することでニーズやサービスが充足されるとの幻想が拡がった。開発は人の欲望を煽り、熾烈な競争を促し、「敗者」「落伍者」を生むシステムである。まさに「戦争」。
琉球では学校、道路、ダム、病院等、社会的インフラの整備が格段にすすんだ。しかし、近代化とは人間を束縛し、管理し、人間の生きる力を減退させるための装置が増えたことを意味する。「自動車の量は移動性を窒息させ、読書の困難は教育経費に沿って増大し、医療は、それが治癒するのと同じ位多くの病気を作り出す。」島嶼という限られた空間における道路整備、自動車の増加によって、渋滞が日常化し、排気ガスが撒き散らされる。地域で運営してきた簡易水道からダムに水を依存するようになった。少数のエリート養成のための学校も建設されたが、多くの落伍者を生み出し、失業問題はいまだ解決されない。そして、病院や医者の増加は人間の自然治癒力を減退させ、実際、琉球人の男性寿命は短くなっている。開発によって地域の自治力が減退するのと同じく、人の自己治癒力も劣ってきたのではないか。開発によって島と人間はともにダメージを受け、「自ら治る力」が奪われつつある。
目に見えるインフラ施設だけではなく、琉球に適用される様々な法律、制度、規則等によっても琉球は縛られた。公的資金、税金や諸制度の優遇措置を琉球は求め続けている。これらに依存することで日本政府からの要求(基地の押し付け)を拒否できなくなった。
開発によって奪われたのは、琉球人の尊厳である。自ら近代化に惑わされ放棄した場合も多い。外部から流入するカネ、開発手法、振興開発策に身を委ねてきたのである。それは島内で培われてきた自治の歴史や実践の軽視につながり、自らが立つ土台を掘りくずすことになる。
琉球の人々が過去何百年も営々と実践してきた自治は、琉球の風土と歴史に根差した現実的で具体的な営みである。地域の文化、歴史、自然に根差さない、外来の開発手法や、地域住民を担い手としない経済政策は破綻する運命にある。「現実的対応」とは名ばかりの開発政策に琉球人はいつまで安住し続けるのか。
「琉球弧の経済学」の提唱
しかし、振興開発が経済自立に役立たないこと、島の本来の豊かさを大きく損なうことを自覚し、振興開発に依存しない生き方を選択するか否かはすべて琉球人自身にかかっている。
かつて、私は経済学を専攻していると自己紹介した際、「経済学は悪魔の学問ですね」と言われたことがある。人間が利益を追求する欲望に駆られた存在であることを前提とし、競争原理、開発により生産性を高め、経済格差、貧困を生み出す学問だという意味である。経済学は琉球の開発を理論的に正当化し、悪魔の使者となって琉球社会を荒らしまわり、平和を奪ってきたのである。
悪魔に呪われた経済学ではなく、住民自身の力で社会を建て直し、互いに助け合う「経世済民」の学としての「琉球弧の経済学」を、車座の集い〈ゆいまーる「琉球の自治」〉において提示したい。この経済学は、住民が島の厳しい現実と格闘しながら自らの手で作り上げた、自治的な生き方の集大成である。自治によって何を目指すのか。慣習法、コモンズ、サブシステンスの意味を問い直し、近代化、開発をこれ以上暴発させない、また開発、カネ、近代生活の便利さ、法制度等への依存から脱却して人間としての尊厳を回復する、そのために今年3月、第1回の〈ゆいまーる〉を久高島で開いた。
(まつしま・やすかつ/島嶼経済論)