サイトをリニューアルしました!5秒後に移動します。
http://www.fujiwara-shoten.co.jp/main/


近代化の中で「読む行為」はどのように変容したか

学芸総合誌・季刊
(KAN)
【歴史・環境・文明】
Vol.14


特集:
 「読む」とは何か

2003年7月刊

菊大判 472頁 2520円
ISBN4-89434-349-5
now printing

 特集:「読む」とは何か

「読む力」が萎えてきた現代、「からだ」で五感で読むことの大切さを訴える!

〈対談〉 「読む」とは何か

竹内敏晴(演出家)+松井 直(児童文学家)

テクストと大学   【大学という独特の制度。その理念と歴史】

イバン・イリイチ(桜井直文=訳・解題)


読みの構造
内田義彦

聖なる読書、俗なる読書
宮下志朗

読むことと登ることの間で 【読書と山岳表象の近代】
和田敦彦

構造を読む 【メタファーとしての記号】
北沢方邦

「無本の本を読む」 【わが読書経験とその意味】
針生一郎

哲学的読書から反哲学的読書へ
子安宣邦

読むという純粋体験 【普遍と個別の汽水域】
茂木健一郎

読むこと/ある密猟
M・ド・セルトー (山田登世子=訳)

意味の沈殿と蘇生の儀式  【「読むこと」の近代性と共同体】
糟谷啓介

〈読む〉ことの身体
兵藤裕己


《小特集》
「読む」ということ 若者へのメッセージ
荒川修作(現代芸術家)/池辺晋一郎(作曲家)/遠藤郁子(ピアニスト)/岡部伊都子(随筆家)/粕谷一希(評論家)/加藤周一(評論家)/川田順造(文化人類学者)/窪島誠一郎(信濃デッサン館、無言館館長)/黒井千次(作家)/黒田杏子(俳人)/河野信子(女性史家)/榊原英資(経済学者)/佐野眞一(ノンフィクション作家)/陣内秀信(建築史家)/諏訪正人(コラムニスト)/多田富雄(免疫学者)/辰濃和男(コラムニスト)/中馬清福(ジャーナリスト)/辻井 喬(作家・詩人)/鶴見俊輔(哲学者)/中村桂子(生物学者)/西澤潤一(電子通信工学者)/藤澤秀行(囲碁名誉棋聖)/山口昌男(文化人類学者)/吉永小百合(俳優)/渡辺京二(思想史家)
聖典・古典を読む
『論語』を読む 池田知久/中国古典詩を読む 一海知義/仏教「曼荼羅」を読む 頼富本宏/アヴェスターを読む 岡田明憲/旧約聖書を読む 秋吉輝雄/クルアーンを読む【その聖典としての重さ】 黒田壽郎/古事記を読む 【シタデルヒメをめぐって】 山田 永/万葉集を読む 岡井 隆/『ハムレット』を読む 鈴木一策/『資本論』を読む 今村仁司/『地中海』を読む 浜名優美/『死者の書』を読む 小林 覚


《緊急対談》

 今、軍事問題にどう向きあうべきか
     【アフガニスタンの現在とイラク攻撃以後の世界】

伊勢崎賢治+姜尚中


《来日特別インタビュー》

   21世紀型の経済成長とは何か
      【アメリカのニューエコノミー論を超えて】

ロベール・ボワイエ


《連載》

■地球温暖化問題の現在 3
 座標軸が揺れる日本の地球温暖化対策と急がれる
 日本発の地球「気候モデル」発信

さがら邦夫

■リレー連載・ゾラとわたし 3
 仮装の遺伝学
金森修
■唐木順三という存在 3
 漱石と鴎外
粕谷一希

■〈往復書簡〉吉増剛造 ←→ 高銀 4
 言語の雲
高銀

■連載  〈ジェンダー論〉中級問題 3(完)
立岩真也

□《寄稿》
 下田獄における第二の「投夷書」について
     松陰の覚悟に対するペリー側の共感
陶 徳民


  巻頭短歌 鶴見和子  巻末俳句 石牟礼道子

【書評・紹介】

  • 2003/9/7 毎日新聞  
  • 2003/8/25 朝日新聞(夕刊) “論壇時評 私が選んだ3点”欄
  • 2003/8/8 毎日新聞 “文化 批評と表現”欄

  • 【藤原書店PR誌『機』2003年7・8月号より】

    「読む」とは何か
    竹内敏晴
    松居 直

    「からだでヨム」こと

    竹内 私が「からだでヨム」と呼ぶことは、ドラマの創造行為のプロセスでも ありますが、「からだとことばのレッスン」という形で人との関わりにおける 現象をくり返し問い返してきた中で気がついて来たことです。こんなことがあ りました。  ――なくなった友人宮本研の若い頃の戯曲で、幕が開くと、半開きになった 押入れの中の男に向って少女が怒鳴っているのがあります。これを稽古してる 時、いくら女優が感情を爆発させてわめいても、相手の男にしてみるとあっち でワァワァ騒いでるとしか聞えない。オレとはカンケイナイよ、と言うことが ありました。これはなぜだ、これでいいのか、という疑問から「呼びかけのレ ッスン」が生れた。人が人にほんとに呼びかけるとはどういう行動なのだろう 、と。こうして稽古をし直してゆくと、少女はただ怒りを爆発させてるのでな くて、「とにかく出てきて顔を見せてよ」とからだ全体で訴えてるのだとヨメ て来る。  「からだでヨム」とは、ある意味で「人の身」に、つまりその状況に身を置 いて、その人の目で世界を見ようとする試みと言ってよいでしょうか。

    ヨムことの現在

    竹内 ひどく大ざっぱな言い方をしますが、今はことばの崩壊期だと思うので す。敗戦直後の混乱期を経て高度成長期、反面を言えば農村共同体の解体期、 から消費社会成立期まで、ある上昇に伴う安定期に、いわゆる中流社会の成立 と共に日本語としてはいわゆる標準語がかなりの広がりにおいて定着した。生 活感をかなりな程度捨象された、そして近代ヨーロッパの理性主義的文脈をあ る程度担いうる、情報伝達パタンとして。それが崩壊しつつある。こう言えば こう答えるのが当然と思い込まれていたパタンが通じなくなる。たぶん三〇年 前若者たちが自分たちの状態の表現として「ムカツク」ということばを見つけ だしたころからそれは顕在化したのだろうと思います。他人を受け入れること も拒むこともせず宙ぶらりんで、次第に自分を表現することを拒み始めたから だたち、ことばは最早コミュニケートのためというよりは、孤立を防衛するた めの弾幕のようなものになりつつあるようです。  こういう状況に応じてことばは二つの方向に分化してゆくように見えます。 ひとつは勿論、高度情報化社会の成立に伴う、軍事技術に先導され電子情報に 先端化されるデジタル化された多様な信号たちで、もう一つは、ことばの解体 ――というより喪失と言った方が近いか。たとえばひきこもりとか摂食障害と かさまざまな様態の病む人たち、不登校や保健室につめかける多くの子どもた ちなど広範に見られる、表現を失ってゆく傾向です。  しかしことばの解体は、家族を第一として、これとかかわる人々にとって、 全く今までと異質の、からだとことばをヨム力、じかにからだにふれからだが みずから感じ見つけ出す表現、を生み出すことに、必死にかかわらざるを得な くさせます。からだと、解体したことばの断片を、在来の思考=言語パタンか ら外れてヨムことを、逆に、未成熟なことばの断片を新しい言語表現としてな んとか記録することを。それを他人がヨム、理解できるためには在来のことば との橋渡しと統合のためのはてしない討論が要るでしょう。そこに新しい介護 や看護、いや一般に臨床と名のつく学(医学・心理学・教育学・哲学など)す べての成立がかかっている、と言っていい。ここでは常にヨミ、吟味する主体 自身のからだとことばが吟味批判されざるを得ないし、解体しなくてはならな い。この全過程が新しい意味で「からだでヨム」ことであり、そこから長い苦 労を経て、新しいデジタル記号とのつながりも含めた、実践と論理の一体化し た、現代というより未来の言語と学問とが生まれうる、かどうか。たぶん近代 の始まりにおいてガリレオたちが手紙のやりとりで歩んだようなプロセスが、 今改めて求められている、ということなのでしょう。

    絵本からはじまることばの体験

    松居 そういうことばの体験が、いまおとなも子どももとっても弱くなってい る。けれどもたまたま絵本をよく読んでもらった子どもは、それに近いことが あります。これは二歳、三歳、四歳ぐらいの子どもまでしかできませんが、そ のころの子どもで、自分の好きな本をくり返しくり返し読んでもらいますと、 全部覚えてしまいます。その覚え方に特色があるんです。原文と一言半句違わ ないで覚えるんです。  これは原文と一言半句違わないというのが特色なんです。小学校ぐらいにな るともうできません。おとなになると全然できません。一番典型的な例は俵万 智さんです。俵万智さんが三歳の時に、『三びきのやぎのがらがらどん』を全 部言えたと、エッセイに書いています。「二歳から三歳までに毎晩、母に何度 も読ませていた」と書いてありますから、おそらく千回以上聞いているんです 。  三びきのやぎの吊り橋を渡る音が違う。「ガタンゴトン ガタンゴトン」と いうのと、「ガタゴト ガタゴト」というのと、「カタコト カタコト」とい うのと、これは私の子どもも全部覚えていました。俵さんは、「三歳の時にあ る日絵を見ていたら、ことばが全部出てきた」と書いてあります。めくってい くと、どんどん言えた、まだ字は読めないけれども。最後の「チョキン パチ ン ストン」の、話はおしまいまで言えたというんです。私は、そうか、いい 体験をされたんだねと思ったんです。その物語を聴くのが何よりの喜びでしょ う。ことばというのは喜びだと……、楽しいことばを全部食べちゃうんです。 ぼくは「食べる」としか言いようがないと思います。その食べたことばが血肉 になっているものですから、絵を見た途端それが出てくるんです。それがいつ 出てくるかはわかりません。俵さんの表現の原点は、これかと思いました。聴 くことが喜びだったのが、お母さんが読むのとまったく同じように自分で言え るわけですから、こんなに楽しいことはありません。ことばで表現するという のがどんなに楽しいことかというのを、彼女は三歳の時に知ったんです。だっ たらあの生き生きしたことばの使い方はわかるよと、私はそれで納得したんで す。  そういうことばと喜びとが一つになったときに、ぼくはことばの命というも のが感じられるんだと思うんです。そしてことばの世界を自由自在に耳から出 たり入ったりして、楽しい体験をもっているものですから、ことばが大好きに なっているので、文字を読むという技術を習得したときにその技術を見事に駆 使できる。いままで耳だったのが、目にチャンネルを切り換えるだけですから 。そうしたら、どんどんどんどんことばの世界に深く入っていく。そういう実 例が、読書感想文を読んでいますと、子どものなかにいます。あ、この子ども は原作者を越えてるっていうのが(笑)。子どもはすごく深く入っているんで す。だから子どものことばの力というのは、聴くことからはじまって、そして 読むというところへつながっていくんだと思うんです。(抜粋)

    (たけうち・としはる/演出家)
    (まつい・ただし/児童文学家)

      
    (構成=編集部・全文は『環』14号に掲載)



    ご注文の方法
    このページのトップへ