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近代化、中央集権化路線の限界を原点から問い直す!

学芸総合誌・季刊
(KAN)
【歴史・環境・文明】
Vol.13


特集:
 今、「明治維新」を問う

2003年5月刊

菊大判 456頁 2520円
ISBN4-89434-336-3
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 特集:今、「明治維新」を問う

限界を露呈させる明治以来の近代化・中央集権化路線を越えるために、世界史の中で「維新」を捉え直し、新しい「国のかたち」を問う!

〈座談会〉 「今、「明治維新」を問う」

毛利敏彦(歴史学)+速水 融(歴史人口学)+榊原英資(経済学)


■明治維新史観を問い直す

・カオスとしての維新 
渡辺京二

・だれが維新を語るのか 
子安宣邦

・徳富蘇峰『近世日本国民史』と明治維新 
杉原志啓

・水戸学と明治維新 
吉田俊純

・懐徳堂と明治維新 
宮川康子

・康有為と明治維新──横井小楠との比較を中心として 
石津達也

〈コラム〉一海知義 「明治維新」という言葉――その出典と語義

■国家意識の誕生

・近世天皇の政治的君主化とその限界──孝明天皇 
藤田 覚

・民間「浪士」と維新期の「改革」 
松浦 玲

・草莽の明治維新──宇良田玄彰と『憂国議事新聞』 
上村希美雄

・「與論」(よろん)VS「世論」(せろん) 
宮武実知子

・古賀どう庵の海防論 
前田 勉

・下田密航前後における松陰の西洋認識──米国に残る「投夷書」をめぐって 
陶 徳民

・北方史を縛る国家意識 
菊池勇夫

〈コラム〉 M・メール 明治政府の修史事業とは何だったのか

■江戸と明治の連続性/断絶性をどう見るか?

・流通ネットワークからみた「明治維新」 
杉山伸也

・歴史人口学からみた幕末明治期の日本 
鬼頭 宏

・建築にとっての明治維新 
初田 亨

・「病気直し」から「教説の時代」へ──民衆宗教と幕末維新 
桂島宣弘

〈コラム〉 百瀬明治 東本願寺と明治維新

■明治政府の“改革”とは何だったのか

・廃藩置県断行と府県制 
松尾正人

・熊本実学派と大久保利通──明治維新における中央と地方 
源 了圓

・明治官僚制の成立 
笠原英彦

・円の成立 
久光重平

・明治の改暦──「時」の中央集権化 
岡田芳朗


〈インタビュー〉日本の人づくりシステムにとって「明治維新」とはなんだったか 
中内敏夫

〈コラム〉北 政巳 スコットランド人ネットワークと「明治維新」


《小特集:幕末維新のキーパーソン》

「徳川斉昭」 家近良樹  「横井小楠」 三上一夫   「元田永孚」 沼田哲
「西郷隆盛」 
猪飼隆明  「吉田松陰」よしだ・みどり  「徳川慶喜」 田原八郎
「山県有朋」 川田 稔  「井上 毅」 坂井雄吉    「頭山 満」 石瀧豊美


《 I・ウォーラーステイン特別インタビュー 》

 新しい社会科学に向けて


《 小特集:エティエンヌ・バリバール》

 ・来日記念セミナー
   マルクス主義と構造主義を超えて

 ・特別寄稿
  構造主義──主体の罷免?


《連載》

■〈往復書簡〉多田富雄 ←→ 鶴見和子 4(最終回)
 超越とは何か
多田富雄

■〈往復書簡〉吉増剛造 ←→ 高銀 3
 蟋蟀(こうろぎ)のように耳を澄まして、…
吉増剛造

■唐木順三という存在 2
 京都大学哲学科の物語
粕谷一希

■地球温暖化問題の現在 2
 世界に多発する異常気象が警告する、“癒し文明”の危機
さがら邦夫

■連載  〈ジェンダー論〉中級問題 2
立岩真也

■リレー連載・ゾラとわたし 3
 〈非常に重要なものの始まり〉
荻野文隆
■ブローデルの精神的息子たち 13(最終回)
 J・ル=ゴフ──ブローデル以降の『アナール』 (聞き手=I・フランドロワ )

■徳富蘇峰宛書簡 13
  森次太郎B 【明治への思い】
高野静子


巻頭短歌 鶴見和子
巻末俳句 石牟礼道子

【藤原書店PR誌『機』2003年5月号より】

各分野を代表する気鋭の論者が、「維新」の変革の全貌にせまり、日本社会の変革の道を提示する!

今、「明治維新」を問う
毛利敏彦・速水融・榊原英資

「国民」の創出

毛利 では、私から問題を二つ提起いたします。第一の問題提起は、そもそも日本人にとつて明治維新の最大の歴史的意義は何だったのか、ということ。第二の問題提起は、日本が明治維新を行って国民国家となったことが、東アジアの国際情勢なかんずく日中(日清)関係に何をもたらしたか、ということです。
 まず、第一の問題提起から入ります。
 私は、明治維新の最大の歴史的意義は、なによりも古代以来の身分制社会編成を国家的規模において原則的に否定し、代わって、人間としての権利つまり人権において対等な個人からなる近代的社会関係を創出する道を開いたことだと思います。明治維新は、近代世界史におけるもっとも徹底した、そして成功した社会革命の一つにほかなりませんが、その根幹は、身分制の撤廃、つまり「士農工商」の身分秩序を否定して「四民平等」の世を導き出したこと、端的にいえば、「国民の誕生」です。明治新政府は、領主権否認、土地私有権法認、通婚・職業選択自由などの急進的政策を精力的に打ち出し、明治五年ごろまでにほぼ実現しました。かくて長年にわたった身分制は息の根を止められてしまったのです。その歴史的意義を正当に評価する必要があります。

日本の国民国家化と日清関係の悪化

毛利 次に、第二の問題提起に移ります。
 それは、外交史ないし国際政治の方面からの問題提起で、日本が明治維新によって国民国家への道を選んだことが、東アジアの国際関係、とくに日清関係に何をもたらしたかということです。
 江戸時代の日清関係は、いわば平穏無事、無風状態にありました。両国間に国交はなかったのですが、経済交流、文化交流が活発に行われ、国家間の葛藤を引き起こすような要因、例えば重大な経済的利害の対立とか、あるいは領土問題、あるいは安全保障上の問題とかは基本的になかった。
 それどころか、明治四(一八七一)年、「日清修好条規」が結ばれて、両国は友好親善関係に入った。これは欧米列強から不平等条約を強いられていた清国と日本が、はじめて結んだ近代的な対等国際条約です。ただ細かく言えば、この場合の「対等」というのは変則的で、領事裁判権、つまり不平等関係を相互に設定するということにおいて「対等」という意味です。いずれにせよこの条約の下、日清関係は非常によい方向に向かったのですが、その直後に関係は急激に悪化し、日清戦争、さらには二十世紀の日中戦争へとつながっていく。
 では、なぜこの関係の急転が起きたのか。ここがポイントです。教科書などを見ると、朝鮮半島をめぐって日清が争って両国の対立となった、と書いてあります。それは確かにまちがいないのですが、そもそもなぜ日本と清国が朝鮮半島で争わなければならなかったのかという最も肝心な点がきちんと説明されていない。では対立の起因は何かと言えば、琉球問題です。
 日本は「明治維新」で国民国家として自らを組織する道を選んだのですが、近代国際社会とは、国民国家という主権国家の集まりですから、国際社会で生きていく上で、主権の及ぶ範囲、つまり国境の確定が不可避となる。そこで問題になったのが琉球王国の扱いです。
 琉球王国は当時、日清両属と言われ、実質的には旧薩摩藩が一種の保護国にしていた。ところが、他方で琉球王は清朝皇帝から冊封を受ける、つまり王に任命されるという形で、形式的には清朝の華夷秩序に属している。このような主権関係があいまいな日清両属状態は、近代主権国家の集合である国際社会では許されない。この琉球の扱いをめぐって、日清両国が対立することになります。
 この経緯を見てゆくならば、残念ながら大筋において近代の日中対立は避けられなかったのではないでしょうか。私の考えでは、日本人が欧米列強への政治的・経済的従属からの脱却をめざして近代国民国家体制的自立を選択し、他方、中国人が華夷秩序に立脚する反動的中華皇帝専制体制、いわゆる清朝統治のもとに甘んじていたからには、一九世紀の日中対立は不可避であった。これは世界史の冷厳な現実だったのです。

人口の推移から見る江戸から明治への連続性

速水 いまの毛利先生のお話は、もちろん私も十分納得いたしますが、私自身の専門はトップダウンの歴史ではなく、民衆史、あるいはミクロおよびマクロの経済史で、そのような視点からは「維新」という出来事は、決定的に重要なものとしては出てきません。  社会史的に言えば、十七世紀に人口増大があった。そして十八世紀には、日本全体としては停滞するが、地域別に見ていくと「西高東低」です。西日本は増え、東日本は減る、しかし全部足すと停滞。私はこの西日本における増大が非常に重要だと考えています。なぜかと言うと、その西日本の人口増大というのは、一種の人口圧、プレッシャーになるわけです。そしてそれをどう解決するかということで各藩は様々なことを試みます。
 例えば、従来の稲作中心ではだめで、他の作物の生産を積極的に奨励する。あるいはそうしたものを藩専売、専買(買う方と売る方と両方ありますが)する。要するに藩による独占の政策をとる。典型的なのは鹿児島藩の砂糖です。これは他で採れません。鹿児島藩が南西諸島の砂糖に目をつけ、南西諸島の島民には他へ売ってはならんと言い、独占的な価格で安く買いつける。それを大坂へ持っていき、非常に高い値段で売る。さらに大坂で買いつけた衣料品や生活必需品を、今度は南西諸島へ持っていき、高い値段で売る。これは非常に利潤が大きい。それで薩摩藩は幕末に軍艦を買ったり、留学生を出したり、あるいは日本で最初の蒸気力で動く紡績工場を造る。そして「明治維新」の主体勢力にもなる。長州藩でも「撫育方」をつくり、資金を貸し、一種の産業の保護というか、育成政策をやる。あるいは特定の産物に関しては専売制をとる。あるいは産業奨励策というか、それをやって産業を興させる。
 当人たちがどこまで意識したかはわかりませんが、私は、これは人口圧をいかに解決するかということであったと考えています。
 では幕府が何もやらなかったのかというと、そういうわけではない。例えば幕府は、紆余曲折はありますが、開港から維新までの十数年間に色々なことをやっている。たくさんの留学生を海外に送り出し、欧米のものを学ばせる。それから直接には、幕府の続いているあいだは完成しませんでしたが、横須賀に近代的なドックを造り、軍艦を造ろうとした。それがいまの横須賀のもとになった。ですから幕府も様々な改革をやり、なんとか追いつこうということを考えています。
 私はどちらかと言えば、幕府側の肩を持つ(笑)。ですから幕府がそれこそもう少しうまくやっていたら、慶喜が逃げないでがんばるとか(笑)、坂本竜馬がいなくて薩長が対立していたら、近代化をやったのは、幕府しかなかった。

東京の問題としての「明治維新」

榊原 毛利先生がおっしゃったように、政治制度、法制度でいえば、民法を中心とした制度ができ、しかも国民国家ができたという意味では、明らかな断絶があったと思います。それからまた経済史的には、まず十七世紀から十八世紀の農業革命があり、それで非常に生産性が高くなり、そういうことを踏まえた上で幕末からの展開があるという、つまり、そういう連続性の中にあったという速水先生のお話がありました。私には双方とも非常に説得的です。ただ私は、そうした歴史的事実の評価からやや離れて、これからの日本、あるいはいまの状況から「明治維新」を考えてみたいと思います。
 ですから「明治維新」を考えるときに、私はこれを東京の問題として考えたい。今後、東京というものをどういうところにしていくのか、東京と地方の関係をどのようなものにしていくのか、という問題と結びつけて考えてみたい。欧米の先進国と比べても、東京への一極集中は異常です。
 しかもこの東京への異常な一極集中は、「明治維新」以来起こったんだろうと思うわけです。大阪と京都と江戸の、ある種の競合関係みたいなものが「明治維新」で崩れていきますね。それから地方にはそれぞれ城下町がありましたが、そのネットワークみたいなものも崩れていく。例えば現在も、中央官庁による地方の事実上の支配が続いている。事実上、中央政府は補助金で地方を支配している。あるいは人事の面でも県庁などに二千人ぐらいの出向者を出している。形の上では一見、地方分権が守られていますが、実際には予算と人事で支配している。そういう東京中心の異常なシステムがまだ存続している。
 そう考えると、この点はむしろ両先生に教えていただきたいのですが、ポストモダンというか、今後のあるべき道を考えるときに、江戸時代というのは一つのモデルになりえますよね。江戸時代にそのまま戻るわけにはいかないですが、二十一世紀の日本を考える際に、江戸時代はポストモダンのモデルとして考えることができるのではないか。
 私は、江戸時代の三百諸公のような、ある種の連邦制みたいなもので、新しいタイプの循環型社会を作っていくというのが、一つのモデルとして考えられると思っています。江戸時代的な分権システムを、新たなポストモダンな世界の中で作っていくとすればどうなるのか。明治以来の制度が成熟し腐蝕するなかで、もう一度、循環的な分権制度を作る準備は出来つつあると思います。二十世紀型の大量生産、大量消費、大量廃棄。大量廃棄のシステムがとくに日本ではいきづまってきている。様々な廃棄物が山のように積み上がり、そこに裏の世界が絡んでくるといったことで、このシステムも限界にきているわけですから、もう一度、それぞれのコミュニティのサイズを小さくし、新しいコミュニティをつくったらどうかと。それで「廃県置藩」という言葉を使ってみたのです。
(もうり・としひこ/日本政治史)
(はやみ・あきら/経済史・歴史人口学)
(さかきばら・えいすけ/経済学)
(構成=編集部・全文は『環』13号に掲載)

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