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■明治維新の“賊軍”の地、東北・水沢で、質素ながら学識高い武家に生まれた後藤新平。遠縁の高野長英の存在を心に抱きながら、幼少時から漢学を学ぶ。1869年、胆沢県大参事に赴任した安場保和に才能を見出され、安場と部下・阿川光裕の支援のもと郷里を離れて須賀川医学校に学び、科学的な思考法をわがものとする。 ■1876年、愛知に転任した安場・阿川を追うように、新平は愛知県病院に赴任する。しかし後藤の目は、個人を対象とした医学を超えて、社会全体の「衛生」(生を衛ること)に向けられていた。一時は病院を離れ西南戦争凱旋兵の検疫に従事、復帰後は次々と建白書を提出、私立衛生会の前身・愛衆社の創設に着手するなど、後藤の存在は、いつしか中央政府の内務省衛生局長・長与専斎の目にも止まるようになっていた。1882年、岐阜で暴漢に襲われた板垣退助の治療のため県境を越えて急行した後藤に、板垣は「医者にしておくには惜しい」と呟く。以後、板垣の予言をなぞるように後藤の活躍は続く。 ■1883年、長与専斎の命で衛生局に採用、また同年、安場の次女・和子と結婚する。公私ともに足場を固めた新平は、代表作『国家衛生原理』(1888)をまとめ、さらに念願のドイツ留学を果たす。コッホ、北里柴三郎らと共に最新の医学に接し、ビスマルクの社会政策を目の当たりにして帰国した後藤を待っていたのは、内務省衛生局長のポストであった。 |