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すぐれた透察力と暖かい心情

杉原四郎著作集 1

経済の本質と労働

〔マルクス研究〕

月報:梅沢直樹・元田厚生・大野英二・重田晃一
Now Printing 

 資本主義の科学的分析を成し遂げ、人間的社会の創造を展望し得た巨人マルクスの原像の核心を経済本質論に見据え、エンゲルス、ミルとの比較のなかからマルクスの原像に全体的・立体的に迫る労作。


A5上製 624頁+口絵 12730円
2003年1月刊)
◇4-89434-320-7


《目次》
 1 マルクス経済学の基本性格
 2 マルクス経済学の形成
  〈幕間〉戦中派とマルクス
 3 経済の本質と労働
  〈幕間〉大英博物館とマルクス
 4 マルクス・エンゲルス問題 
 5 新マルクス・エンゲルス全集

【書評・紹介】

  • 「経済」 2003年6月号 “書評”欄
  • 週刊「読書人」 2003年4月18号 “現代の目から見たマルクス”


  • 【藤原書店PR誌『機』2003年1月号より】


    若き読者へ
    杉原四郎

     私がはじめて教壇に立ったのは敗戦直後。二十六歳の私が学生に一読を推めたのは、吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』であった。本書に丸山眞男や鶴見俊輔が強い感銘をうけたことが、末尾に丸山が書いた回想にでてくる。丸山によれば、本書の特色は、人生いかに生くべきかという倫理が、社会科学的認識とは何かという問題ときりはなさずに問われている点にある。当時のわが国では、倫理と論理を結びつけたものはなかった。それで私は、ミルや河上の『自伝』や、マルクスの『ドイツ・イデオロギー』、ミルの『自由論』、河上の『貧乏物語』などを学生に推薦しつつ、将来できたら私も自分なりの『君たちはどう生きるか』を書いてみたいと念願するようになった。
     今度の『著作集』を編むにあたって心がけたことは、私が書いてきた全著作を凝縮して全四巻にまとめ、その精髄――倫理と論理をむすびつけるもの――を読者につかんでもらうこと、いいかえれば社会科学の著作が同時に人生読本にもなって若い読者にはたらきかける作品になることであった。最年長のミルに対するマルクスや河上の思想的・人間的なかかわりの解明につとめたのも、三人の思想を私自身がどのように吸収したかを書いた文章を各巻に採録したのも、そのためである。網羅的な全集に対する立体的な著作集の独自な意義はここにある。 ミルもマルクスも河上肇も、理想社会の言説を信じ、終生それに役立とうとする努力をつづけていった。私もこの著作集の編集をつうじて、またその完成の後も、吉野源三郎が書いたように、若い読者に話しかけるノートを書きつづけてゆきたいものである。

    (すぎはら・しろう/元甲南大学学長)



    著者積年のミル研究を集成

    杉原四郎著作集 2

    自由と進歩

    〔J・S・ミル研究〕

    月報: 山風蛛E山下重一・松井名津・深貝保則
    Now Printing 

     「唯一の確実で永続的な進歩の源泉は自由である。」(J・S・ミル)──ミルを経済学者としてしか見なかった従来の研究を批判し、ミル経済学の根底にある「社会哲学」を重視して包括的なミル研究の発展につとめてきた著者の、積年の成果を集成。


    A5上製 576頁+口絵 12730円
    2003年7月刊)
    ◇4-89434-347-9


    《目次》
    1 J・S・ミルと現代
       〈エッセイ〉ミルと日本人
    2 イギリス思想史とJ・S・ミル
       〈エッセイ〉トロントのタンポポ
    3 ミル・マルクス問題
    4 J・S・ミル研究史
    5 ミル著作集の創刊と完成

      解説/あとがき/初出一覧/人名索引(外国人名・日本人名)

    【藤原書店PR誌『機』2003年7・8月号より】

    ミル経済学の根底にある「社会哲学」に迫る著者積年の研究集成

    思想家ミルから現代へのメッセージ
    杉原四郎

    日本におけるミル思想の受容

     ジョン・ステュアート・ミル(1806-73)という人物を御存知ですか 。十九世紀のイギリスの思想家で、わが国では経済学者として有名ですが、広 く人文・社会科学に精通し、種々の政治・経済の時事問題に評論の筆をふるっ た当時の代表的なオピニオン・リーダーでした。
     その名声は当時ロンドンに留学していた日本の青年たちによって伝えられ、 とくにミルの『自由論』は邦訳されて、自由民権運動を促進する働きをしまし た。明治十年代に地方の私塾や学校で旧来の道徳や政治の原理にかわるべきも のを模索していた青年たちにミルの著書は、広く自由主義・個人主義のテキス トとして愛読されたのです。
     明治の後半期から大正にかけて日本が先進国に追いつこうと競争する中で、 青年は民族主義や国家主義の思想をのばしてゆく一方、近代社会の中で生れた 貧富や差別を克服するための社会改革の思想も重視するようになります。また こうした左右の思想的対立の中でこそ基本的人権に基づく民主主義の進展が求 められることになり、大正デモクラシーの時代には、明治初期に見られたミル 思想への熱意がふたたびよみがえって、ミルの女性解放運動に影響をあたえた 書物や、代議制統治論の現代的問題等を解説した書物などが何種類も出版され 、日本の普通選挙制度を実現する上に役立ちました。また彼の生涯をふりかえ って時代の変動とともに歩んだ道や思想的影響をうけた人々のことをかいた『 自叙伝』の邦訳も出て、彼の人物に対する関心が一段とふかまりました。
     私がミルの書物にふれたのは昭和十年代の学生時代でしたが、その頃出され た彼の『経済学原理』の邦訳書は、社会主義にふれた所が伏字にされ、ミルが あれほど強く主張していた言論・出版の自由がその頃の日本では失われていま した。私が戦後、留学先を彼の住んだロンドンにしてミルという人物にふれた いと思ったのも、ミルがこのように明治以来の日本にさまざまな影をおとして きたからだったのかもしれません。

    ナチュラリストとしてのミル

     ミルの『自叙伝』に登場しない有名な人物を二人紹介しておきましょう。一 人は精神分析で有名なフロイト、もう一人は『昆虫記』の著者ファーブルです 。ミルは生前ドイツ語で全集を出しましたが、その中でミルの遺著の『社会主 義論』を担当したのがフロイトでした。彼はミルと直接の関係はなく、医学の 若い研究者だったのですが、たまたま友人に依頼されてその仕事をし、ミルの 文章からすくなからぬものを学んだようです。ファーブルとミルとはフランス のアヴィニオンにミルが寓居を構えてからの親友で、自然の観察という趣味が 一致した彼らはよく一緒に植物や昆虫の採集に出かけました。愛妻に先立たれ たミルにとってファーブルとの交友は晩年の貴重な収穫でした。
     私の著作集全四巻を貫流しているテーマの一つはミルとマルクスとの対比で 、資本主義のつぎには社会主義になるだろうという見通しでは二人は一致して いるのですが、それがどんな社会主義なのか、またそれを実現してゆく方途は 如何という点では、二人の考え方は対立しています。この問題を私は第一巻と 第二巻とでとりあげました。また現在国際的にも見られるのは、ローマクラブ などがとりあげた環境問題、地球の保全という人類的課題の先覚者としてのミ ルの思想的再評価ですが、著作集第二巻の『自由と進歩――J・S・ミル研究 』でも、「2 自然・人間・労働」の中で、「ナチュラリスト・ミル」の人と思 想についてのべています。自然と人間とが共存してはじめて、人間的な社会主 義も実現できるというミルのメッセージを読みとっていただけたらと念願して います。

    (すぎはら・しろう/元甲南大学学長)

    積年の河上肇研究の全成果

    杉原四郎著作集 3

    学問と人間

    〔河上肇研究〕

    月報:細川元雄・金沢幾子・鈴木篤・田中秀臣
    Now Printing 

     総合的な“日本経済学史”の扉を開いた杉原四郎の真骨頂。“科学と宗教”問題を常に焦点におきながら、思想家・河上肇の歩みを、マルクス研究、J・S・ミル研究、人間にとっての経済と労働の意義、の三側面からたどる画期的業績。

    A5上製 560頁+口絵 12600円
    2006年9月刊)
    ◇4-89434-523-4


    ●目 次●
    日本経済学史上の河上肇
    日本経済学史の展開と河上肇
      〈エッセイ〉河上肇と京都
    旅人 河上肇
      〈エッセイ〉十年見ず故郷の花
    河上肇における科学と宗教
    河上肇全集への道

      解説/あとがき/初出一覧/人名索引(外国人名・日本人名)

    【藤原書店PR誌『機』2006年9月号より】

    著者積年の河上肇研究の全成果

    河上肇の自叙伝
    杉原四郎
    東の福田、西の河上
     河上肇(1879―1946)は、戦後になくなったのだから、そう過去の人でもないのだが、彼の存在を知らない人が多くなっている。岩国に生まれ、19歳のとき東大法科大学に入学、経済学を勉強、23歳のとき大学院に進んで社会主義論や農政学の論説を発表する傍ら、社会政策学会に入って、福田徳三と論争を続ける。二人は日本に経済学という新しい社会科学を欧米から導入し、根づかせるために協力。東の福田、西の河上とよばれた。その意味で今経済学を学んでいる人にとって、河上は日本経済学形成の恩人の一人である。河上はアメリカからの経済学導入にとくに熱心で、マルクス経済学の最初の紹介者の一人でもあった。

    人道主義的社会政策の実現
     29歳の時、京大の戸田海市の推薦で京都帝大法科大学講師となり、京都へ移転、その後助教授、外国留学、学位を得て教授に昇格、経済原論と経済学史を担当する。留学で社会問題、貧困問題の重大性に注目、帰国後『貧乏物語』を公刊、ベストセラーとなる。本書は今も岩波文庫に入って版を重ねているが、マルクスの社会主義の影響はまだ薄く、河上の立場は人道主義的社会政策の実現であった。マルクス主義に移行するのは40歳で創刊した個人雑誌『社会問題研究』でのマルクス研究への沈潜からである。傍ら、59歳で友愛会京都支部で講演以来、啓蒙運動への参加を決意する。また学生有志と『共産党宣言』の講読会を開始、京大社会主義研究会の創設につなげた。43歳のとき論文集『社会組織と社会革命に関する若干の考察』を刊行、ロシア革命に関する考察を発表、マルクス主義左派陣営の批判をうける。46歳の頃、櫛田民蔵や福本和夫からの批判をうけ、レーニンの『唯物論と経験批判論』によりながら、唯物史観に関する自己清算を行う。傍ら、宮川實との共訳で『資本論』を岩波文庫で発表。『資本論』の系統的研究を本格化させた。

    京大辞職、そして下獄
     49歳の時、「既に教授会の議を終て総長より辞職の勧告を受けたる以上、……茲に辞意を決定す」。河上は、総長が示した辞職勧告の三つの理由は「毫も辞職の必要を認めざるものなりとも」、教授会の議に従って辞職した。経済学部同好会・送別謝恩会がひらかれたのだが、共産党を支持する学生が、河上の新労農党支持を非難したので白けた空気であった。  54歳のとき、逮捕されて中野警察署へ連行、後に豊多摩刑務所に移され、「今後の方針」を帝審判事に提出。市ヶ谷刑務所に送られ、7月2日、検事局に『獄中独語』を提出。それは新聞各紙に頒布される。8月1日、公判で懲役七年の求刑、またこの日『赤旗』に河上除名のことが掲載され、8月8日、懲役5年の判決が出る。一回提出した控訴状を取り下げ、9月26日、下獄。1934年1月、「現在の心境」を提出して、今後実際運動には全く関与せず、マルクス主義の研究・邦訳を断念するが、基礎理論は堅持するとのべる。

    獄中での「宗教と科学」
     54歳、独房で「感想録」を書くことを許され、「宗教(仏教)と科学(マルクス主義)」についての読書記録として書きのこした。「私ぐらい熱心にマルクス主義を研究した者で、しかも私ぐらい真面目に宗教に対し――真実の宗教に対し恭敬の念を掲げ得る者は、極めて稀であろう」と自負する河上は、獄中で「宗教的真理と科学的真理」をテーマとして書くことにし、57歳の7月、「一マルクス主義者の獄中生活(上篇)」を脱稿、12月に下篇を書き終える。58歳の1月より『獄中贅語』を執筆、58歳の5月、例言、目次を付して当局に提出するが、当局はこれを無視した。やがてこの清書は外部に出て、末川博のはしがきをつけて河原書店から1947年9月に、河上の病死(1946年1月)後、遺著として公刊された。

    近代日本文学史上の名作、『自叙伝』
     もう一つの重要な遺著は、やはり獄中で執筆を思い立った『自叙伝』(4冊、世界評論社、1947―48年)である。「幼年・少年時代」から遺言「小国寡民」にいたるまで、「自画像」を中心に心血をこめて書き綴ったこの『自叙伝』は、近代日本文学史にも残る名作であろう。  めまぐるしい時代の変化を生き抜いた明治の青年たちは、一生をふりかえって後世の青年に供すべく、自叙伝を書きのこしている。河上の『自叙伝』と対比されるものとして、福沢諭吉や石川三四郎のそれなどが思いうかぶが、河上のものは文章の冴えという点でも抜群で、『貧乏物語』の筆力は彼の晩年にいたっても決しておとろえていないことは、この長い分量を決してあきさせないことでわかる。  ところで大正時代になると、河上は学界のみならず評論界でも活躍の幅をひろげていったので、河上を同時代の文人と比較してその特徴を論ずる河上肇論が雑誌の特集号として出現したが、河上は『自叙伝』の中で多くの河上論を紹介しつつ、一方では自分の特色をよくつかんで紹介してくれている文章には謝意を表しながら、他面では自分の行動を奇行と説明しているものに対し、それは決して奇をてらうものではなく、あることに心を動かされるとそれを自分のこととして考え、とことん考え抜くところに他人には奇行と見える行動が生まれてくるのであると応えている。家族との生活も仕事もすてて無我苑にとびこむのも、象牙の塔を出て政治という未知の世界に移り住むのも、治安維持法にふれるのをおそれず命をかけて共産党に入るのも、河上にとってはそれより他には考えられぬ選択肢だった。

    生涯河上を支えた妻、秀のこと
     河上の書いたものは一つももらさず読んでいたのは肇の父忠で、河上は発表した文章はすべて父に送っており、留学中の手紙はまず父におくられ、それが家族の間に回覧されることになっていた。  『自叙伝』の中には、肇の弟二人暢輔と左京や、子政男、シズ、芳子らも出てくるが、一番多く登場するのは妻秀である。23歳で秀と結婚した肇は、大学生活を送った頃も獄に入ってからも、秀に愛され支えられながら共に人生を歩んできたことをあたたかい筆致でかきしるしており、肇の一途でひたむきな行動が道をふみはずさないように見守ってくれていることを多としている。裏方の秀が時に重大な機会には堂々と肇とわたり合って、主張すべきはしているところは『自叙伝』の中でも特に印象的な箇所である。肇はマルクスの妻のことを書いた文章で、マルクスの妻が夫のきびしい亡命生活を支え通したことをのべて、この妻あっての夫だったと書いているが、その時おそらく秀のことを思いうかべていたことであろう。4年をこえる長い獄中生活の間、秀は制限で許されている範囲で出来るだけしばしば手紙をおくり、また面会に来て獄中で当局と戦いながら苦しい生活に堪えている夫の激励を惜しまなかった。夫婦の生活を描く『自叙伝』は夫婦一体となっての生活の記録としても人の胸をうつものがある。

    獄中生活事情を詳しく活写
     最後に、肇の『自叙伝』のうち、最も興味をそそるのは、やはり獄中の囚人の生活で、彼らの衣食住の生活がくわしく紹介されているところであろう。肇がのべているように、転向をそそのかすために普通の規則からみれば優遇されているのだが、それにしても牢獄というところのきびしさ、とくに思想犯の処遇について書かれている所を読むと、河上がこの場所からのがれたい、家に帰りたいと衷心から願うことを訴えているのは忘れがたい。河上は何がつらいかといって、独房に一人入れられて他人との対話の機会がほとんどない生活を強いられることをあげているのは、おそらく日本の監獄とくらべて囚人の人権が守られている外国の牢獄でも基本的には同様であろう。まさにそこに監獄の存在の本質があるのだろうと思われる。『自叙伝』は治安維持法に死刑が加わってよりきびしくなり、更に保釈後や満期の後もなお行動の自由を束縛するよう改悪された時代に、控訴をとりさげて所定の任期を果たして出獄したという体験に基づく叙述である。  河上の時代にくらべて現在の新憲法下の刑務所はどのように変わったのか、変わらないのか。鈴木宗男氏や堀江貴文氏の獄中生活を報道する新聞を、河上のそれを念頭において読むと、いろいろなことを考えさせられるのである。

    (すぎはら・しろう/経済学)