【藤原書店PR誌『機』2005年4月号より】
「女はいのち、男は物語」
加藤登紀子
「女は実体だが、男は現象だ。」
と言った人がいる。
とすれば、
「女の一生はいのちだが、男の一生は物語」
といえるだろうか。
ひとりの男が生き終えた時、通り過ぎ、ゆれ動くだけだったすべての現象が、ひとつの歴史となって語りはじめる。
夫、藤本敏夫が逝ってからの二年余り、彼がそこに生きて存在していた時より、はるかに多く、彼との対話があった。
生きている限り未完の走り書きだったはずの言葉が、今は、はじめから全部、何度でも読み返せる暗喩としてしっかりとつながってくる。
藤本敏夫 遺稿――「歴史は未来からやってくる」
2002年7月31日、肝臓の手術から一年で藤本はこの世を去った。
この一年間の間に彼は三冊の本を書こうと奮い立ち、結局、一冊の本の三分の一を書いただけで力尽きた。
この最後の原稿をもとに何とか出版したのが『農的幸福論』(家の光協会)。
この中には、彼の生い立ち、「食」を通して浮かび上がる日本人の深層、そしてこれからのあり得べき農業への模索がある。
何より残念だったのは、彼の過ごした怒濤のような青春時代への記述がなかったこと。もう少し筆を進ませていてくれたらと、かえすがえすもくやまれた。
ところが、後になってから、彼が残した自伝らしき文章が、他の出版社のデスクの中に眠っていたことがわかった。
たしかなことはわからないが、2001年の春ごろ、書いたものらしい。
60年代、日本の歴史を動かした学生運動、その中枢にいた彼は1969年7月6日という運命の日に、この動きのすべてから離れた。
何にむかって戦い、何によって敗れたのか。彼の懊悩は、自らの存在自体の中にあるどうしようもない矛盾へとたどりつき、「地球と人間」という果てしない問答へと旅がはじまる。
私の最も知りたかったその転換のまっただ中の彼のほとばしる実声が、この原稿の中にあった。
私が藤本と出逢う1968年3月以前の輝くような青春の日々も、私たちが獄中結婚に至る1972年の少し前、下獄までの死にもの狂いの未来探しもあった。
肝臓を切ってから、彼が何よりとげたかった、彼自身の自伝の素描が、すでにここからはじまっていたのだとわかった時、書き残すことへの彼のただならぬ念の強さを想った。
出逢った時から約三十五年をともに生きて、それでも見えていたのは激しく交叉する点と線。過剰な説明を嫌った彼の軌跡は、決してわかりやすいものではなかった。だからここに「藤本敏夫 遺稿」として残された言葉は私には本当に有難かった。
ここに彼が書き残したのは、もちろん妻のためではない、彼自身のためでもない。彼の生きた時間が消滅した後にも脈々とつづいていくはずの歴史という未来のためにちがいない。
そう思いはじめると、すべての彼の個人的な記述、いやもっと言えば彼の生きた個人史のすべてが、実は、彼自身のものである以上に、これからを生きる人々へのメッセージなのだと思える。
藤本という男は、そういう風にしか自分を生きられないタイプの男だったと、今、改めて思うのだ。
私たちの結婚についても、彼は、「遺稿」の第五章でごく簡単にふれているだけだ。
男にとって結婚や家族や子供というものは、その程度のものなのかなあ、と一抹の淋しさを感じると同時に、彼の中にあった、いのちという実体への気恥かしさのようなものを感じもする。
自らの生涯を、いのちとしての実体としてよりも戦いの道筋として、通り過ぎる過程としてとらえていた。
私はひとりの男のむこうに、結局、男の超えようとする海を見ていたのだとふと思う。
「結婚」という出来事は、女である私にとってはそれまでのすべてを忘れさせるほどの重大事。新しい生命を宿し産み育て、輝きわたる一瞬一瞬を全身に浴びていくことだ。
「獄中往復書簡」
第T部「歴史は未来からやってくる」の第五章から第六章のすき間にあったはずの、獄中結婚から出所までの二年半という時間を、藤本はあえて「遺稿」の文中に記述していない。
けれど、獄中にあったこの時期に、はじめていのちとしての自分とむき合っている藤本の姿があったと私は感じている。
1972年、結婚という出来事にはじまる「獄中往復書簡」は、私にとって奇蹟のような宝物。
月に一度、便せん三枚と限られた条件の中でひたすら正確な筆先でつづられた藤本の手紙は、何か文豪のような雰囲気が漂っていて、「またお芝居してる」と私は思わず笑ったりしていたが、こうして読み返してみると、藤本の思想のほとんどがこの期間に築かれたのだとわかる。
一方の私。手紙には、今という時間をただただ見つめ、描き、楽しんでいる女の息づかいが踊っている。
自分の書いた手紙が、一通残らず、自分の手もとに帰ってくるというのも滅多に望めないことだ。受け取り人が刑務所の中にいたお陰……。
ここに存在し続ける不在の人
ここにその人がいないからこそ、ともに生きていると思えたこの三十数年前の二年半が、夫の死後、ひたすらその不在を対話で埋めようとした苦闘の日々と似ている。
夫はもうずい分天国の階段を昇ったことだろう。
今度ばかりは出所して帰って来ることはもうないが、時折、空の雲のすき間から顔を出す青い月に気配を感じ、夏空のまぶしすぎる陽射しに幻影を見る。
「男は現象」だから、肉体としての形が消えても、ここに存在し続けることができるだろう。
私はそれを信じている。
(かとう・ときこ/歌手)
ひとつの時代にしばられない彼ら・・・・・・
鶴見俊輔
藤本敏夫は本を読む学生であり(こういう学生は少ない)、魅力のある学生だった。
下獄する前の日に私の家をたずねてきて、
「明日下獄します。もっと勉強したかったですね」
と言った。
下獄している間に学生運動は内ゲバを深め、獄中で彼は自分の生きる道を考えた。運動の指導者は、そのときトップの位置に押し上げられることによって、そのときの目標しか見えなくなるが、彼は遠くまで時代を見る力をもっていた。出獄してから彼は、納豆をつくり、ヨーグルトをつくり、野菜をつくり、農業を広く生活の一部に取り込む新しい形の設計を考えた。トップのリーダーが、トップである一つの時代にだけ適応する人となるのではなく、苦しい転換期を切りひらく構想をもつ人となった。
大学から彼のところに、卒業の条件を交渉に行った。彼は、自分との結びつきが機縁となって退学した人がいるとき、自分が卒業することはできないと言ってことわった。生活のかわり目ごとに彼の残した言葉は消えない。東大生歌手・加藤登紀子が獄中の彼と結婚したとき、「知床旅情」で名前だけを知っていた私は、この人は、人間についての目利きだと思った。