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【書評・紹介】 |
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《目次》
〈講演〉朝鮮のみなさまへ I 朝鮮母像 1958―80年 桃の節句 叡知のひと 下駄の音 “妓生観光反対!” 真の美 差別と美感覚 高貴な匿名の書 黄の屈辱 鏡の主体 琉装とチョゴリ 朝鮮母像 しばられし手の讃美歌 敬愛を抱いて II 鳳仙花咲く 1981―90年 光よ、蘇れ なぜ「征伐」というのでしょう 鳳仙花咲く 半端者のいま 寒村先生の三項目 語学の講座 てのひらと太陽 耳塚墳丘 虚空の指 「はざま」からの展望 美しい術と書きます。美術とは。 III 悲しみを「忘れじ」 1990―2004年 本川橋西詰 これは、確かに 全域をへだてなく ひとりのおいのち 自然な願い ひっそり死 美に学ぶ 白磁の骨壺 筑豊・悲しみを「忘れじ」 私のうそ 朴先生からの電話 一対の生き雛への祈り 韓国に在る思い 〈座談会〉日本のなかの朝鮮 井上秀雄/上田正昭/岡部伊都子/林屋辰三郎 〈跋〉よろこびの虹――岡部伊都子さんのこと 朴菖熙 《関連書》 |
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【藤原書店PR誌『機』2004年5月号より】
半世紀わたる「母なる朝鮮」への思いこもる珠玉の随筆を精選!
朝鮮母像(抄) 岡部伊都子
あたたかな肌のぬくみ 1974年8月、赤松麟作という名にひかれて、遺作展に行った。 見せてもらった色紙は、二重の意味でわたくしの心を打った。朝鮮の絵だ。そして「これが兄の恩師の筆のあとか」と。頭上の荷は、洗濯物か、あるいは市に出す品であろうか、小さな子を連れ、腰まわりのやや後に、赤い服の赤ちゃんをくくりつけた女人が歩いている。日本式のおんぶではない。チマの裾をかろげた働く姿か。あるいはおなかが大きいのではないかと思われるほど、胴まわりが太い。体格の立派な堂々とした朝鮮の母像に、わたくしはあたたかな肌のぬくみを感じた。 その「赤松麟作展」のパンフレットに掲載されている自伝絵巻『やっとどっこい』の文章のなかに、「昭和5年に朝鮮へ矢野さんに連れられて行った。朝鮮は春であったためか、大変美しく感じた」とある。 厳冬できこえる朝鮮の春は、どんなにか美しいことであろう。当時の「京城」(現在のソウル)で展覧会も開かれたらしい。 この色紙は、現地でのスケッチか、あるいはスケッチをもとにして描かれたものか。油絵ではなく軽い淡彩なのが、生きている。わたくしはソウルをたずねたことがないから、母像のそばの石積みらしい建物が何か、よくわからない。何かのやぐらであろうか。この建物も面白い。だが何よりも、質素な服装のなかに息づくなま身のあたたかさがうれしい。 戦前の朝鮮の風景や風俗を描いた絵は、ときどき見たことがある。だが外側から見た風俗や風景が多く、描かれた人物自体に生活のある感じを持ったのは、これがはじめてだった。このごろは何にでもファッショナブルであることを強調する傾向が強い。若い母が歩く時は、子どもさえファッションの一部なのだそうだ。あまりファッション、ファッションといわれると、それがファッショ、ファッショときこえて、どきんとすることがある。これはそうした毒をいっさい持たない。素朴で勁い若い母の平明な動きだ。 赤松麟作と兄 赤松麟作という名を知ったのは、戦死した兄博の一周忌に寄せられた一文による。明治小学校時代に教わった図画の狩野馨先生が、兄が小学校時代から油絵に筆を染めていたことに触れ、「工芸学校では赤松画伯について好きな道へと猛進し」と書いておられた。 兄は自分の志望の学校を、父の絶対命令ではばまれた。当時、長兄が肺を患っていたので、父としては次兄をも家業に従わせたかったのだろう。父が知人から教えてもらったという大阪市立工芸学校の木材工芸科に入学させられた。赤松麟作が朝日新聞社をやめて工芸学校図案科に教えにゆくようになったのは、昭和2(1927)年。兄は図案科ではなかったから、正規の油絵の授業をうける機会はなかったはず。ただ、好きな油絵のこと。勝手に描いた絵を持って赤松先生に近づいたのではあるまいか。熱心に意見をきかれて、何かと指導してくださったのではないかと想像する。 声なき声をきく 明治40(1907)年以来、大阪で独特の洋画塾を開き、佐伯祐三をはじめとする数多くの人びとを指導し育成された洋画の先駆者の面影がしのばれる。そういえば学校を卒業してからの兄は、よく心斎橋の丹平ビルヘ行くといっていた。丹平ビルには赤松洋画研究所があったのだ。 戦争というものすごい大波に逆らいようもなく戦死した兄。あきらかに軍国乙女だったわたくし自身を含めて、当時の民衆の多くは、決して朝鮮民族を理解しようとしてはいなかった。強引に日本の植民地とされた朝鮮の不幸に、心痛んではいなかった。自分が何をしてきたか、何をしているのかを、今だってはっきりと認識できていないようで、われながら情けない。 この、あたたかな朝鮮母像が手にはいったことをよろこぶ。いまになって、当時の朝鮮人民衆の声なき声をきくの思いである。 (おかべ・いつこ/随筆家)
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